春はあけぼの。
やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、
紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
清少納言の『枕草子』は、西暦1001年にはほとんど完成していたと言われています。その枕草子の“ものづくし“のなかに、星に関する章段があります。
星はすばる。彦星。夕づつ。
よばい星少しをかし。尾だに なからましかば、まいて。
夜空に見える無数の星のなかから、清少納言が心惹かれるものの筆頭に挙げているすばる(昴)とは、地球から400光年も離れたところにありながら肉眼でも見ることのできる、プレアデス星団のこと。彦星は、七夕のひこぼし。夕づつは宵の明星金星。よばい星とは、流れ星のことです。
彦星と織姫にちなんだ七夕祭りは、故郷仙台のもっとも大きなお祭りということもあって、この章段には鮮明な印象と親しみを抱いていました。
「すばる」の語源は、「集まってひとつになる」という意味の「統ばる(すばる)」であることから、多くの星が集まって輝いている様子を表す言葉として、使われるようになりました。ひとつひとつが輝きを放ちながら、纏りをなす…その意味を知ったとき、“素晴らしい“の“素晴(すばる)”はそこに由来しているのかもしれない、と思いました。
ただ、“尾だに なからましかば まいて“…(よばい星に)尻尾がなければよかったのだけど…というのはいったいどういうことなのかは、謎でした。星の足あとが何か縁起の悪いものを連想させるからか、よばい星の“夜這い”という言葉に怨念のようなものを重ねあわせたのか…諸説あるようですが、星の尻尾を好ましくないと感じた彼女の、本当の想いを知る由はありません。
この頃、民俗学者の宮本常一さんの著書をあれこれ読んでいます。都心部だけではなく、辺境の地も自らの足で歩きまわり、彼が現地の人々と接してきたなかから見出した、自然を尊ぶ文化の力づよい継承、海に山に息づいている神性を、身近に感じながら生きる人々のまっすぐな心根や、その理にかなった社会生活と営み。そこには、便利なシステムと道具に“飼い慣らされ“ていくなかで、私たちが失ってしまった、大地に足のついた逞しさがありました。叡智をもって自然と共存しようとする、清らかなしたたかさがありました。
“真剣に物をみていけばいくほど、わからないことが増えてくるのですが、わかったと思い込むのではなくて、わからないことを確かめて、明らかにしていく、それが大切なことです。旅とはそういう場だと思います。“(『旅にまなぶ』より)
宮本さんは旅をとおして、人間の底知れぬ豊かさに触れました。わからないことと向き合う楽しさと好奇心が、彼を次なる旅へと駆り立て続けたのかもしれません。宮本さんは地球を四周するほどの行程をほぼ自らの足だけで歩き、泊めてもらった民家は千軒にも及ぶそうです。
「どうして?」「なんで?」そういえば子どもは質問するのが大好きですが、私もようやくこの頃になって、自分にはわかっていないことがとてもたくさんあることが、以前よりはっきりとわかってきました。わかってないことだらけ、といったほうが近いかもしれません。
思えば私たち音楽家もまた、わからないことを常に問いかけているのです。「どう感じますか?」「共感してくれますか?」…私たちがしているのは、作品や演奏をとおして、相手に問いかけていることにすぎない、といってもいいほどです。
問いかけたくなるのは、知りたい気持ちから。知りたくなるのは、対象に心惹かれているからであり、相手を大切な存在だと思っているから。つまるところ、知りたい気持ちの正体は“愛” なのではないでしょうか。
清少納言が星の尻尾に寄せた“なからましけば、まいて”という気持ちには、さしたる理由はなかったのかもしれません。足あとを残さずに潔く流れていく方が、星という輝ける存在にふさわしい気がする、と感じたことを、そのまま読み手に投げかけたくなっただけかもしれませんし、なぜそう思うのかを読み手に想像してもらいたかったのかもしれません。
星はすばる。和歌に掛詞はつきものです。昴は“素晴”とも書くことを、清少納言が意識しなかったとは考えられません。素晴…素(ありのまま)が晴れやかに輝く…尻尾に未練を託したりせず、志を曇らせることなく、ひとりひとりが思いおもいに命の輝きを燃やすことの“素晴らしさ”を謳いたかったのではないか、という気もしてきます。
宮本常一さんが伝える日本の風土や風習、日本に生きる人々のユニークさに触れるにつけ、“わかりたいこと”が膨らみます。食文化、村社会、伝承の豊かさ…興味は尽きません。真の表現者とは、相手に「どうして?」の答えを求めたくなる“愛しさの種”を、手渡すものなのかもしれません。
わかりたいと感じる“わからないこと”があるかぎり、そして、お互いの“素”…ありのまま…を受け入れたいと願う気持ちがあるかぎり、私たちはどんなことも晴れやかに乗り越えていける。ある日の日没前、雲に覆われながらも内側から放たれる光が、“ほそくたなびきたる紫色だちたる雲”と絶妙に調和してる空をみていたら、そんな思いがすうっと心を横ぎりました。
(週刊エッセイ『ピアニストのひとり言』完)
*20年以上にわたって連載してまいりました『ピアニストのひとり言』は、今回をもって終了となります。長い間ご高覧くださいましてありがとうございました。
10月に移住する川崎町の家の基礎工事が始まりました。5月半ばには上棟式です。庭土はどうするか、障子の意匠はどうするか。屋根の色やドアのデザイン、コンセントの位置や高さは?…ひとつひとつ、担当の方と相談しながら決めていきます。先日はなかなか現場に行けない私のために、両親が様子を見に行ってくれました。
お世話になっている工務店は、施工した家に“◯◯の家”とタイトルをつけるのがならわしだそうで、私の家にはどんなタイトルがつくのかしら、と、密かに楽しみにしていました。大黒柱になる木を鳴子の森で伐採したときや、地鎮祭のときにご一緒くださった広報担当のTさんから、先日メッセージが届きました。
「(タイトルについて)いくつが案を考えております。鈴木様のご職業を鑑み『自然のささやきを奏でる家』などなど…」なお、こちらの案にこだわらず何か「これだ」というタイトルがあればおっしゃってください、というお話でしたが、私は彼女が提案してくれた『自然のささやきを奏でる家』がすっかり気に入ってしまいました。特に心に響いたのが、”ささやき”という言葉です。
雨、風、せせらぎの音。葉ずれの音や枯れ葉が地面に落ちた時の音。鳥のさえずりや虫の声…自然界には、聞き逃すのはもったいないような、音楽的で麗しい“ささやき”が溢れています。バッハよりも古いバロック時代のクープランという作曲家は、ゆりの花びらがひらくさまを音で繊細に描いた『ゆりの花ひらく』という作品を書いています。
私の相棒の楽器ピアノは、ご存知のようにオーケストラのようにたくさんの音をダイナミックに奏でることができますが、本当に優れているところは美しい弱音にあると思っています。
現在のピアノのすぐ前の先祖はフォルテピアノという名前の楽器でした。“強い音も弱い音も”というその名の示すとおり、先代のチェンバロと違って、タッチの違いによって強い音も弱い音も弾き分けられるようになってはいましたが、改良を重ね、音域も広げて、さらに幅広い表現が可能な今のピアノになりました。一般的には”フォルテピアノ”が省略されてピアノと命名された、といわれていますが、進化したら名前が短くなった、というのはやや奇妙ですし、フォルテではなくピアノという方が残ったところになにか特別な意味があるのではと考えています。
その楽器の音が、強い音よりも弱い音の方が雄弁で魅力的だとしたら、その楽器のポテンシャルはかなり優れているといえるのではないでしょうか。プロのピアノ弾きとしても、大きな音、たくさんの音やすばしこく動き回れる運動神経で人を圧倒するかよりも、いかにひとつの美しい弱音で聴くひとの心に語りかけられるか、のほうに実はずっと技量やセンスが求められるものです。
そういえば、声楽家の方も同じようなことをおっしゃっていました。「ピアニッシモで響きを保ったまま、本当に声が消えて無くなるまでディミヌエンドしながらどこまでも伸ばす」のは、究極のテクニックだそうです。
それは弦楽器奏者にとっても同じようで、あるチェリストのコンサートを聴いた友人が「(ダウンボウの)弓先残り10センチのところから、弓を返さずさらに美しい弱音をいつまでも響かせる」ことのできる技術を目の当たりにして度肝を抜かれた、と興奮気味に話していたことがありました。
絶叫すれすれのような凄まじい声量や、空間が揺れるような爆音で聴くひとを打ちのめす、といったダイナミズムが人々にもてはやされるのは、いつの時代にもあることです。確かにひとは、何かものすごいものに圧倒されたい、という願望を持っているものかもしれません。でも、本当に大事なことを伝えたいとき、ひとは相手に対して大声を張り上げたりせず、優しく静かに語りかけるものです。
少し話が逸れますが、このところステージ映えする大規模なソナタのような作品よりも、村の片隅からきこえてくるような民俗的な音楽や、キャラクターのわかりやすい小さな作品に心惹かれています。聴くひとに、音楽をとおしてパーソナルな親密さを受け止めていただきたい、という思いからかもしれません。
日頃からそんなことをぼんやりと考えていたので、担当のTさんが提案してくださったタイトルの”ささやき”という言葉に、ことのほかハッとさせられたのでした。
弱い音に佇む美、思いの深さ。音量や技術で注意を引くのではなく、繊細な音に宿る魂のようなものを聴く方に手渡したい…それが自分のテーマです。川崎町でどんな“自然のささやき”に出会えるのか、それらをどんなふうに奏でることができるのか。家のタイトルを聞いたとき心が踊り、ふくふくと満たされるのを感じました。そして、私の目指すものを言い当ててくださったTさんの感性の豊かさと思いやりに、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。
「『自然のささやきを奏でる家』に勝るものはないと思います。素敵なプレゼントをいただいたような気持ちです。いただいたタイトル、宝ものにします」Tさんにそうお答えしたところ、「ありがとうございます、光栄です!実は私、今日が誕生日なのです。私の方こそ、誕生日プレゼントをいただいた気持ちです」という嬉しいお返事をいただきました。
川崎町のシンボルの木は、灯台躑躅(ドウダンツツジ)。ドウダンは満天星とも書きます。小さな白い星が咲きほころぶ姿を、夜空いっぱいに輝く星たちになぞらえて、そう表すようになったといいます。
そこに暮らす人々が、無限の宇宙にひろがる星のように輝きますように。たとえひとりひとりの力は小さくささやかであっても、集まると大地を照らすことができる優しい光となる…地元の方々とともに、そんな命の煌めきを育みあうことができますように。
『自然のささやきを奏でる家』の完成は、約5ヶ月後。引き渡しの日まで、穏やかに、健やかに過ごしていけたらと願うばかりです。満天星の咲く川崎町が、私にとってかけがえのない古里になることを夢みつつ。
(『満天星の里へ』完)
一日中荒れ模様のお天気だった土曜日の翌日、雨のめぐみと風の洗礼をうけた近所の御神木に会いに行きました。この大銀杏の木は、いつも両手を広げて訪れる人たちを包んでくれます。
まばゆい緑を見上げていると、心の奥の潜在意識までもが浄化されていくみたいな感覚に誘われます。美しい緑に囲まれながら子供たちの笑い声や鳥の声を聴いていると、この世こそが天国なんだ…と心から思うのです。。
その翌日、市内にお住まいで梨園を営んでいるYさんが、敷地内で収穫した朝採りの筍を分けてくださいました。
それを拙宅まで届けてくださったのは、南インド料理の名店『葉菜』のオーナーシェフ吉田氏。「ミナさん、今家ですか?筍いります?」…サプライズのような電話のあとまもなく颯爽と現れ、筍とやはり採れたてのフキを私に手渡して、ハヤテのように去っていきました。
バニラアイスクリームの色をした美しい筍が、透明なビニール袋にぎっしり入っていました。まだ温かさが残っています。採れたてをいただくだけでもありがたいのに、すぐに調理できるよう、Yさんは柔らかく湯がいたものを用意してくださったのです。
あまりに美味しそうなので、その日は食感と香りを堪能しつくすべく、大きめにざくざく切って、丁寧に引いた出汁でシンプルに若竹煮にしました。
これぞ、海のめぐみ三陸産の極上わかめと土の滋味深さの奏でるマリアージュ!筍はえぐみもなく、香り豊か。収穫したものを分けていただくありがたさをかみしめながら、ありがたくいただきました。
翌日は、筍ごはんを楽しみました。いただいたフキは美しい翡翠色が楽しめるよう、キャラブキ(佃煮)にするのはやめて、色を損なわない煮つけに。
個性的な香りをもつフキを盛り付ける器は、その存在感に負けない石野竜山作の九谷焼を選びました。ずいぶん前に骨董市で見つけて、一目惚れしたものです。筆の達人だったという竜山。その線には確かに、迷いのない力強さを感じます。
萩焼の飯椀に、大好きな漆のトレイ。手に取るのは岩手県二戸の浄法寺塗りの漆のお箸。お気に入りの道具や器を使うだけで、丁寧に“おもてなし”されているような気持ちになります。
せっかくいただいた貴重な食材でしたので、大切に頂こうと思ったらこうなりましたが、考えてみたら普段からできることです。
おもてなしとは、心を込めて対応すること。その対象は相手の人だけでなく、自分自身が含まれても良いのです。むしろ、自分をもてなすことこそ、大切なのかもしれません。自分の機嫌は、他人に振り回されるのではなく、自分自身で責任をもって整えるもの。自分を丁寧に扱って心地良く在ることは、周りの人たちにとっても好いことですし、心の健やかさ、穏やかさは身体のコンディションにダイレクトに繋がります。
料理を“丁寧につくる”ことは“丁寧に食べる”ことにつながり、さらに“丁寧に生きる”ことにつながっていきます。そう考えると、いかに食べるかはもちろん、いかに調理をするか、日々どんな気持ちで過ごすかなど、すべての瞬間は自分への“もてなし”の積み重ねともいえます。
経済的・物質的豊かさや、便利さ・効率主義の追求からは得られない、精神的な充足感や幸福感を受けとる極意は、自分をもてなす“もてなし上手”になることにあるのかもしれません。
「ここで呼吸していたい」と直感的に感じた地で、自分で自分をどんなふうにもてなせるか…新たなステージを前に、わくわくしています。
(『満天星の里へ』12 最終回に続く)
「コロナ禍になって大変な状況に追い込まれている業種が多いところ、申し訳ないような話なんですが…」ある不動産会社の営業マンは、そう前置きをしてここ一年の不動産業の動きについて、話し始めました。
「テレワークが増えたことで、東京から神奈川や埼玉、千葉の通勤圏に家を買って移住なさる方がものすごく増えているんです。この一年で30万人ほどです。通勤が減ったことで、必ずしも駅近でなくても良くなったことから、例えば最寄駅から徒歩20分かかる、かなり築年数の経っている戸建てでも、広告にあげた端からあっという間に(契約が)決まってしまうんです。建て売りを建てても建てても、ニーズに追いつかない状態なんですよ」
会社の売り上げも残業も格段に増え、就職して以来の忙しさということでした。一方、私のような自営業者は、よほどビジネスセンスがあって機転がきく方ではない限り、コロナ禍に翻弄され苦しんでいる方が大半です。まさに明暗が分かれているという状況といえるかもしれません。
そんな、先が見えず仕事も収入も不安定な状態にあるにもかかわらず、大金を投じて家を建てるなどということは、賢い方はまず避けるでしょう。思えば幼い頃から、叶うかどうか分からない夢に向かって歩き続けてきたので、どうもそのあたりの判断基準が自分は麻痺しているようです。
人生は一度だけ。その人生、心(魂)の成長を続けることに意味があると思っています。確実なことを選択して予想どおりの結果をつみ重ねるのと、何かに挑戦し続けて失敗を重ねるのでは、後者の方が成長しそうではありませんか。
「専門家とは、非常に狭い範囲でありとあらゆる失敗を重ねてきた人間のことである」量子力学に反対するアインシュタインを説得しようと、彼との論争を続けたノーベル物理学賞の受賞者、ニールス・ボーアの言葉です。さすがに説得力があります。なにごとも、勇気をもって一歩を踏みだしてみなければ始まりません。
だからといって、何の考えもなく無謀なことをやればいいと言うものでは、もちろんありません。たくさんの失敗を貴重な糧として、目標に向け必要ならば軌道修正をしながら帆を進めていかなくては、自爆してしまいます。そこで大切になってくるのが、俯瞰するための地図と方位磁石。自分がいまどのあたりにいるのか、見落としている危険要因やより良いルートはないのか、客観的に判断する必要があるからです。
人生の要所要所でそれを教えてくれる、地図や方位磁石にあたるのが、“周囲の人”の存在ではないでしょうか。他の人とのかかわりの中からさまざまな物の見方や立場、自分とは違う価値観や考え方があることを知ると、より良いコースを練り上げることにつながります。そう考えると、大きな成功をしている方には驚くほど真摯に人の意見に耳を傾け、必要とあらば大きな軌道修正を行うことも厭わない柔軟さを持っていらっしゃる方が多いのもうなずけます。
建て売り住宅は、経済性、販売のしやすさなどを考えると確かに合理的で無駄がありません。そこへいくと、今回の私のように土地や工務店を探し、設計図とにらめっこして窓の高さやコンセントの位置などをひとつひとつ、担当の方と相談しながら決めていくのは、時間も手間もがかかります。でも、そこには飛行機で目的地に到着するのではなく、設計図という地図を手に、一歩一歩自らの足で踏みしめて進んでいるような充実感があります。
先月、帰郷する川崎町の土地で地鎮祭を終えました。
八坂神社の神主さんが、伸びのあるお声で祝詞を奏上してくださると、鳥の声も一緒になってあたりに響きわたりました。その土地の生き物たちから祝福してもらったみたいで、とても嬉しい気持ちになりました。
現地では余分な土を掘り出し、土をならし、基礎工事の準備が進んでいきます。また、栗駒山付近のくんえん所では、私が伐採した杉の木がくんえん過程を終え、きれいに磨かれて仕上がってきました。大黒柱になる日に向け、これから最適な温度に管理された場所で乾燥されていきます。
ひとつひとつの“途中”を、ご縁をいただいて関わってくださる方々とともに積み上げていく。その先に出来あがる家は、単なる住まいの箱ではなく、土、木、人の手、そして時間がひとつに紡がれた“作品”になっていくような気がしています。
作品といえば、ひとつの作品をステージにあげるまでに、私たち演奏家はなんと膨大な時間をかけて試行錯誤を積み重ねることか。なんとたくさんの失敗と挫折を経ることか。…でも、ステージに限らず人生も旅も、そうしたものを含むあらゆる“途中”にこそ、醍醐味があるように思うのです。
来月はいよいよ棟上げ。残りの人生をかけた、大きな作品のステージデビューまであと半年ほどですが、そのあと長い時間を一緒に過ごしながら、お互いが成長する“途中”を愉しみたいと思っています。(『満天星の里へ』11に続く)
如来や菩薩を俗世から離れた存在のように感じるのは、性別を越えたようなお姿から受ける独特の印象からではないでしょうか。
よく、あの人は見た目よりも男っぽいね、とか、見かけによらず女々しいところがあるね、といった表現を聞きます。男らしら、女らしさというものに対して一定のイメージが抱かれている一方、女性のほうが大胆な決断をくだせたり(戦国武将のケースをみても、その戦略を影で操っていた女性の存在があったりします)、男性のほうが繊細な感性を持っていることも、珍しくありません。
私たちの複雑で多様なパーソナリティーは、外見からわかるとは限りませんし、さりとて相手との会話を重ねれば必ずわかるわけでもありません。“わからない”からこそ、表現し伝えることや、お互いが歩み寄ったり受け入れあうことが大切なのだと思います。
シューマンは自らのなかに二つの異なる人格があることに気づき、“彼ら”にフロレスタンとオイゼビウスと命名しました。何事にも積極的で行動力に長け、社交的な人格の方はフロレスタン。対して、穏やかで思慮深く、内向的な人格はオイゼビウス。それらは別の角度からみると、男性性の強い人格、女性性の強い人格、とそれぞれ言い換えることができるかもしれません。
シューマンに限らず、ひとは誰でも自分の内側に異なる性格を持っています。親分肌なのに妙なところで臆病だったり、楽観主義者かと思いきや実は大きな悩みや悲しみを抱いていたりするのが、私たちです。自我の中には男性性と女性性の両方があって、それらが適宜、バランスを取りあっているのだと聞いたことがあります。
その“バランス”という言葉が、この頃とても気になっています。地球の環境問題も社会のあり方も心と身体の健康も、すべては善き(適切な)バランスが取れているのか否かによるところが大きいのではないでしょうか。
畑の土も、然り。野菜づくりなどに「良い土」のためにはph(ペーハー)の値や、窒素、リン酸、カリウムなど養分といった化学性だけでなく排水性(水はけ)、保水性などの土壌性のバランスもとても大切です。面白いなと思ったのは、土の”団粒構造(だんりゅうこうぞう)”。微生物などの働きによって作られる、小さな団粒(団子状の土)の集まりの構造のことです。
微生物の排泄物や粘液によって細かな土の粒子がくっついて団粒になります。この団粒の中で水分が保たれ、団粒と団粒の間にある適度な隙間によって、排水と通気を良くします。これによって、植物の成長に充分な保水性がありつつ、排水性も確保できるというわけです。
相反するものがお互いに最適なバランスを保ち、長所を発揮しあい短所を補いあう。好ましい状態の土に種子が抱かれ、太陽光や雨、ひとの手などを得て成長をとげる…。そうして育った健やかな作物は、絶妙なバランスからもたらされる実りであり、地球からの贈りものです。
「私、畑好きみたい!今さらだけど」そういって満面の笑みを浮かべ、キラキラと表情を輝かせている友人のまぶしいこと。また、「畑にいると気持ちがいい。空は青いし風はすずしい。嫌なことなど何もない。いっそのこと農婦になって生きていきたいと思ったりする」と、SNSに書いていた高校時代からの友人は、その翌日、体調を壊しながらも長年勤め続けてきた外資系の会社を、本当に辞めました。
世の中の価値観は、時に私たちに幻想を与えます。例えば、日本人が邁進して成しとげた高度成長。その“成長”という言葉に含まれるのは単に経済のそれであって、人としての成長や成熟した社会を含むものではなかったことは、今や誰もがわかっています。
“こうであるべき”としてこびりついていた既成の価値観が、少しずつ変化してきているように感じています。そもそも、男は、女は、社会人は、こうであるべき…という縛りは、いったいどこから生まれたのでしょう。
心地よいと感じる場所で、心地よいと感じることをして、社会とともに生きていく。心と身体の健康、経済的なことと精神的な豊かさのバランスを保ちながら、ありのままの自分を生きること以上に、尊いことはありません。その、“ありのままの自分”にたちかえる時の善き伴走者…サポーター…となるのが、音楽でありアートではないでしょうか。
微生物も私たちもみんな、かけがえのない存在です。畑にいると気持ちがいいと感じるのは、それを理屈ではなく、感覚で実感するからかもしれません。みんなで支え合って、みんな必要としあっている…。誰もが心地よいと感じるそんな社会を作ることが、ひっくり返るほど難しいこととは思えないのです。もし、私たちが本来もっている慈愛の心から得るインスピレーションにしたがって、生きることができるなら。
春。新たなスタートに心はずむ季節に、YouTubeの新シリーズを始めることにしました。昨年のバルトークチャンネルのように毎日更新するのではなく、雑談のようなお話を多めにして、無理のない更新頻度でゆるく進めていこうと思っています。
ふだんクラシックにあまり親しまれていない方にも、ラジオを聞きながす感覚でリラックスしてお楽しみ頂けるようなものにできたらと考えています。
コンセプトは、『聴く森林浴』。
森のなかに入った時に思わず深呼吸したくなる、あの感じ。心を解き放ち、聞こえるもの見るものに感覚を研ぎ澄ませるあの感じは、もしかしたら自分の内面を整え感性をブラッシュアップする、“心の薬”になっているのかもしれない。先日、自宅の大黒柱を切り出すために森のなかに入ったとき、そんなことを感じ、今回の企画コンセプトを思いつきました。
小さなピアノ作品をご紹介して、聴いてくださる皆さんをそんなリラックスしたひとときに誘えたら…さらに、音楽という身体に優しい薬によって、私たちが持っている免疫力を高めていただけたら…という願いを込めて、プログラムを構成していくことにしました。その背景には、一年以上経ってなお終息がみえないコロナ禍、という状況も反映していると思います。
さて、記念すべき第一回目は、尊敬してやまない三善晃先生の『音の森』のなかからの一曲“そよかぜのおどり”をご紹介しました。
とても洗練された作品なので、できる限り味付けを控えてシンプルに弾いてみたかったのですが、実はそれこそがむずかしく、思いのほかたくさんのテイクを要しました。子どもでも弾けるようにと書かれた作品集ですが、限られた音の“字数”に音楽なエッセンスがぎゅっと詰まっていて、改めて三善晃先生の偉大さを感じました。良い勉強になりました。
第2回目はフォーレの“バラード”を取り上げました。あの巨匠リストに「(これを弾くのに、2本では)腕がたりない!」と言わしめ、フォーレはそれがもとでピアノソロ用だったのをオーケストラ伴奏つきに書き換えたと言われている、いわくつき?の作品です。
今年に入った頃からでしょうか、フォーレに強く心惹かれるようになりました。もともと好きな作曲家ではありましたが、ここへきてやっとその良さを理屈ではなく心で感じることができるようになった気がしています。『大人のための音楽講座』でもフォーレを取り上げ、レパートリーも増えてきました。幸せなことです。
“バラード”は、全編を演奏すると15分ほどかかるなかなかの大作で、フォーレはリストにこの作品をみせたとき、「曲が長すぎませんか?」と気にしていたとか。YouTubeでは、特にこの季節にぴったりくる、爽やかな森のイメージが漂う冒頭のandante cantabile(アンダンテ・カンタービレ)の部分を抜粋して紹介しました。
そして、4月1日にアップロードした3回目には、新たな年度のスタートにふさわしく、学校の始業チャイムのあのメロディーが前奏のバスに聴こえてくる、メンデルスゾーン『無言歌』第一曲目をご紹介。この回で、”森の仲間”として画面のどこかに必ず写っていたカエルくん(カエルのぬいぐるみです)が、初めてしゃべりました。…といっても、本当に声を発したわけではもちろんなく、仕掛けは私の”なんちゃって腹話術”です。
今までやってみたこともなかった腹話術ですが、ふと思いついて行き当たりばったりでやってみたところ、ことのほか面白くて、台本もつくらずにぶっつけ本番で撮ってしまいました。この回に限らず、毎回トークの部分はほとんど撮り直しなしです。それは、トークが得意だからではなくむしろその反対の理由からです。2回目はもっと上手に話せるかな、と欲を出すとそれが裏目にでて、どこか意識しすぎて不自然になってしまうことが多いのです。
新シリーズ『聴く森林浴』。これからどんな作品をどんな味つけで展開していこうかと考えると、楽しみでなりません。次々に弾きたい曲が浮かんできて、毎日でも撮りたくなってしまいそうです。改めて実感しているのは、リサイタルやコンサートでは取り上げにくいような、小さな、やさしいピアノ作品の中に、美しく、個性豊かで、芸術的にも素晴らしい曲がじつにたくさんあるということ。ピアノ弾きとして、こんなに嬉しいことはありません。
コンサートピースには物足りないような、また、音大の実技試験やコンクールの課題曲には向かないような規模や難易度のものであっても…いいえ、むしろ技術的にはやさしいものであるが故に…センス良く、印象的に弾くことはむしろ難しく、弾き手の本当の力が試されます。ただシンプルに煮ただけのふろふき大根やミニマムな味付けのペペロンチーノなど、シンプルな料理のできばえにこそ、作ったひとの技量がでるのと似ているかもしれません。
昨年のバルトークチャンネルの時もそう思ったのですが、そのとき以上に「今まで、なぜもっとこのような作品を弾いてこなかったのだろう」と、嬉しいような悔しいような気持ちです。コンサートやリサイタルのためのプログラム、という”枠”にこだわらなければ、クラシック音楽のレパートリーの魅力をもっともっとお伝えできるのではないかと思うとワクワクしてきて、いてもたってもいられません。
『聴く森林浴』番組最後のご挨拶は、「音楽が、ありのままのあなたを輝かせるお役に立てますように」…カエルくんという相棒もできたことだし、一緒に知恵を出し合って、森の恵みを皆さんにお届けできるよう取り組んでいきたいと思っています。どうぞよろしくお付き合いください。
新型コロナウイルス感染症などの動物由来感染症の拡大には、森林破壊も深くかかわっていると言われています。森林が破壊されることで人や家畜がさまざまな病原体を持っている野生生物と接触する機会が増え、生物多様性を損なう経済重視の人間の行為が原因となって、新型コロナに限らず新興感染症の感染拡大を加速させているというのです。
日本は森林の割合(森林率)が国土の67%を占める森林大国ですが、国土の約7割を森林が占めていると聞いても、あまり実感がありません(ちなみに、移住先の川崎町は町の面積の8割が森林です)。しかも、食料の例と同じく、木材になる木がたくさんあるのにもかかわらず、住宅の建材などは安価な輸入材が主流になっているのです。なぜこんな”ひずみ”が生じているのでしょうか。
戦後の復興にあたって木材需要が急増した際、不足を補うために造林を急速に行うための対策として、政府による『拡大造林政策』が執り行われました。端的にいえば”主に広葉樹からなる天然林を伐採した跡地、原野などを、スギやヒノキ、カラマツなど成長の早い針葉樹中心の人工育成林に置き換える”、というものです。
それと時期を同じくして、それまで薪や木炭が中心だった生活燃料が電気やガス、石油に切り替わっていくと、もはや木材は燃料に適さないと考えられ、天然林の広葉樹はどんどん伐採されてしまいます。代わりに建築用の材になる針葉樹の需要は増え、針葉樹を植えることは銀行にお金を預けるよりも価値があるともてはやされて、造林はブームになりました。
そこへきて、1964年に木材輸入は全面自由化となりました。国産と比べて安価に、かつ安定的に供給できる輸入の木材が大量に手に入るようになったのに加えて、やがて変動相場制となり、一ドル360円の時代が幕を下ろすと国産材の価格はみるみる下落。9割以上あった木材の自給率も下がり続け、森林は十分な手入れがされずに荒廃が進んでしまいます。
伐採されぬまま放置された里山の森林では、広葉樹と針葉樹のバランスも生態系も、おおおきく乱れて(乱されて)しまいました。人々が素晴らしい高度成長に酔いしれている一方で、森の生き物たちは悲鳴を上げ続けていたのです。
私が、川崎町の家はここに建ててもらおう、と決めた工務店は、もともとは森林の管理をしていた地元企業で、NPO法人を立ち上げたり、伐採・製材などの製作を行っている材木屋や、森でのフィールドワークを行なっている自然学校などの経営にもたずさわっています。彼らが買い受け、管理しているのは、ある大企業による娯楽施設のプロジェクトがバブル崩壊に伴って頓挫し、宙に浮いてしまった森なのだそうです。有名な鳴子のこけしも、その森の材から作られているとのことでした。
「森を(人工林に改造される)以前の状態に戻すのには、あと何年かかるかわからない。私が生きている間にはおそらく無理でしょう。でも、森の健康を取り戻す取り組みを重ねていくしかないんです」鳴子の森の入り口で、ひんやりと澄んだ静謐な空気に包まれながら、所有者の大場さんがそう語りました。その日私は、自宅の大黒柱にする木を森で伐採させていただくことになっていたのです。
つなぎやヘルメット、手袋など、一式をお借りしてスタンバイ。雪を踏みしめ、雪解け水のせせらぎを聴きながら森に分け入り、あらかじめ技師の方に選んでいただいた立派な3本の杉の木との対面を果たしました。
「それぞれに触ったり、声をかけたりしてみてください。自分の相棒はこれだ、という木は、不思議なことですが、わかるものなんです。どうぞ時間をかけて、感じるままに選んでください」
言われたとおりに声をかけたり、触ってみることしばし。森にはやっぱり妖精がいるのでしょうか。寄り添ってきてくれた一本を、無事選ぶことができました。その木は、他よりも温かく感じられたのです。「これにします」「おお、それにしますか。(私が)話しかけていた時に、てっぺんの枝をおおきく揺らしてアピールしていました木ですね」マスク越しに微笑みながら、担当の鈴木さんがその木を仰ぎ見ました。
伐採する前に、私とほぼ同い年のその木に向かって全員で二礼二拝一礼。これまで森の中で生きてきた木に、これからはわたしの家を支える存在となって共に生きてくれるようお願いして、森からの旅立ちのお許しを乞いました。
チェーンソーを扱うためのプロテクターを身につけ、技師の方からチェーンソーのエンジンのかけ方、刃を当てる角度や木を切り倒す方向についてのレクシャーを受け、サポートをいただきながらいざ入刀。
最後の一刀は斧で…という段取りにしていたのですが、そのタイミングに渦を巻くようなおおきな風が吹いて、最後の一押しの力を添えてくれました。まるで森が作業を手伝ってくれたみたいでした。
10数メートルの高さの杉の木はその場で約3メートルごとに切断され、それぞれに”鈴木”とサインをしました。この後加工場に運ばれ、虫の予防と強化のため燻をかけてから乾燥させるのだそうです。「今度は川崎町で会おうね」心の中で、そう声をかけました。
伐採作業の後、スタッフの皆さんといただいた、地元のお米や食材を使った料理を提供している定食屋さんのランチの美味しかったこと!何より、「美味しいねぇ〜!」を連発しながら幸せそうにご飯を平らげ、少年のようにおかわりをしていた皆さんの姿が印象的でした。
私たちは森の命をいただいて、森とともに生きている。…森の恵みに、胸もお腹もいっぱいに満たされた一日でした。
(『満天星の里へ8.』に続く)
山のふもとに
せせらぎが流れる
その水を汲み取り身を清めれば
あなたの傷は癒される
ベトナムで伝統的に行われている、“生まれかわりの儀式”のお唱えの一部です。
日本は八百万の神を信じる多神教の国だと言われますが、たとえ誰かからそうだと教わっていなくても、万物に神性が宿っているのを感じるのは難しくないことなのではないでしょうか。
東日本大震災から10年目の節目を迎えました。“ツツピー、ツツピー…“その日、朝からずっとシジュウカラが元気に鳴いていました。
先日帰省したおり、震災の凄まじさを振り返るテレビ番組を見ていた母の「見たくない方もたくさんいらっしゃるでしょうね…」というつぶやきが、胸に刺さりました。
当時、離れた地で信じがたい映像をひとり眺めながら、宮城県にいる家族はもちろん、恩師、友人、生徒さんひとりひとりのお顔が次々に浮かんで、やりきれない気持ちになったことを思い出したのです。
買い占めで空っぽになったスーパーの棚を眺めては「被災地にはちゃんと届いてるの?」と、不安と焦りと憤りの入り混じった感情に包まれ、連絡がつかなくなった数日間は使いものになりませんでした。
故郷の宮城県だけでも1万人以上の方々がお亡くなりになりました。日本全体のコロナ感染による死者累計数を上回る数です。
万物に神が宿っている。山にも海にも他の生き物にも、自然界には神様がいらっしゃる。偉大なる神、慈悲深い自然は、癒しや恵みだけでなく、時に私たちに厳しい叱咤を与えます。言葉の代わりに抗えない脅威をもって、私たちに“愛のむち”を振り下ろすというかたちで。
“命を脅かす自然“という言い回しがあります。確かに、自然は時として威嚇のような“警告”を私たちに与えますが、ほかの何よりもたくさんの生き物の命を脅かしているのは、他でもない、私たち人間なのではないでしょうか。しかも、警告さえ与えず、有無を言わさず。
人間が生きていくために必要な食料や燃料を得るために、太平洋や大西洋を大型タンカーが往来し、幾つもの国の上空を物資を運搬する飛行機が飛びかうようになったのは、いつからでしょう。それ以前の私たちは、どうしてもそれを必要とするほど困窮していたのでしょうか。
四人家族に必要な米や野菜を作るのに、そんなに広い面積の田畑は必要ないといいます。昔の農村にあった“結“のような共同作業制度で、食糧の供給だけでなく家のメンテナンスや子育てなど、お互いを必要としあい助けあって生活を営んでいるなら、例えば災害が起こったとしても巨大な防潮堤よりもずっと心強いことでしょう。
そんなことをぼんやり考えていたら、妄想がどんどん膨んできました。もし、世の中がアイヌのコタンのような集落でできていたら?
電力などは集落ごとにクリーンエネルギーやバイオマス発電で供給。地産地消が基本で、食べるものも身につけるものも、生活に必要な道具も、顔なじみの方の作ったものでまかなう。病気はメディシンマンが自然療法でどんな病も直してくれて、子育てのプロフェッショナルである中高年の女性たちが子供たちやお母さんたちをサポートしてくれる。祭や婚礼、弔いなどの“集い”があればみんなで会場を設営し、心づくしの料理やお祈りを捧げる…。
「“集い”のときの音楽は任せて!」と、心のなかで声を上げたら、実際にあはは、と笑ってしまいました。夢のようです。残念ながら、今のところ本当に夢なのですが。メキシコ産のカボチャやモーリシャス島で獲れたタコが手に入らなくても、フランスで解禁になった日に新酒が飲めなくても、ほとんど困りそうにありません。美味しいものも美しいものも、充分に手に入るのです。
輸入と輸出のバランスのため、と言いますが、例えば、そもそも重工業製品を大変なコストをかけて輸出する必要があるのでしょうか。今は地球上の人の住んでいるほとんどの場所にWi-Fiが飛んでいる時代。技術者の指導を受ければ、生産ラインを確立させることはほとんどの国で可能なはずです。
震災で亡くなった方は、今頃どのような思いで私たちを眺めていらっしゃるでしょうか。“私たちの命は、私たちだけのものではない“…そう肝に銘じて、晴れやかな笑顔にあふれる地球を夢みながら皆で心と力を合わせ、それぞれが“できること”を積みかさねていかなくてはならないと痛感しています。
合掌。
2020年コロナ禍になって、自分のなかにたくさんの変化が起こりました。変化というよりも仕切り直し、見直し、というようなものかもしれません。
毎日目に耳に飛び込んでくる痛々しい現実に直面したとき、嘆きや不安よりも強く襲いかかってきたのは、この事態は私たちに何を伝え、何を学ぼうとさせているのだろうか、私たちがすべきことは何なんだろう…という問いでした。同時に、私たちはこれまで大変な間違いを重ねてきたのではないか、という胸騒ぎを覚えました。
ウィルスは人為的なものであるという主張もあるようですが、なんであれそれが地球上の多くの人間の生活を一転させてしまったのは事実です。あんなにマスクを嫌がっていた欧米の方たちもマスクの着用が日常になり、手探りで定められた規制に従って生きていくことを強いられる日々のなかで、頭のなかであるフレーズが繰り返し聞こえるようになりました。
“調和からの乖離“
地球上の他の生態系と人類。自然の営みと私たち人間の営み。生き物として本来あるべき姿と現在の私たちの姿。そして、本当の豊かさと多くの人間がつい追い求めてしまう物質的豊かさ。…さまざまなものが、切ないほどに分離してしまっているような気がしてきたのです。
寄り添い、支えあい、育みあうはずのものと離れてしまっている。幸せを求め、調和の中に生きているはずだった私たちが、いつの間にか調和を欠いて行き場を失っている。そこにはもちろん、自分自身の姿もありました。
芸術家は何のために存在するか。音楽は何のためにあるのか。…フランスの大作曲家フォーレが、晩年自身に問いかけた深い疑問が、ふつふつと湧いてきました。
芸術に目指す方向というものがあるとするならば、そのひとつはいっけん相反するもののなかに、調和をみいだすことなのではないでしょうか。光と闇、安らぎと緊張、悲しみと喜び、美さ(ビューティー)と醜さ(グロテスク)、外向と内向…二元論に落とし込むのではなく、それらをすべて受け入れ、相反するもののように思われがちなそれらが本来“ひとつ”としてつながっていることを、音を介して伝え、感覚を持って受け止めてもらうのが、音楽なのではないかと思うのです。
周囲を変えることは難しい。でも、自分を変えること、自分が変わることならできる。まずは自分の想念と行動を調和させることからやってみよう。…ちいさな光が見えてくるようでした。そんな時に出会ったのが、川口由一さんが提唱し実践なさっている、持続可能な農業“自然農”です。
その理念は、“耕さない、草や虫を敵としない、肥料や農薬を持ち込まない”。川口さんは語ります。「自然に任せておけば、そこに暮らす草や虫、微生物たちの生命によって、土は必ず軟らかくなり、耕す必要はなくなります。耕せば、虫や微生物など無数の生物が暮らす環境が破壊され、肥料なくしては作物が育たない悪循環に陥ります。」
「その土地の気候風土や土の状態、作物の性質に応じた適切な手助けが必要です。形を決めてしまってはいけません。応じる、従う、そして任せる。そうした在り方を心掛ければ、草が生えている場所ならどんな所でも作物は育ちます。なぜなら麦も米も、野菜もみな草なのですから。」
化学肥料などを投入して土壌を改良し、薬の力で自然の営みをコントロールする慣行農業は、生物が生まれながらに備えている自然治癒力、免疫力を無視するかのように化学的な薬の力に頼る現代医療の姿とだぶります。自然に応じ、従い、任せる。…それはまさしく調和そのものですし、音楽の解釈や表現にもつながる理念です。
私も芸術家のひとりとして…というよりも、地球人のひとりとして…おひとりおひとりが本来持っている感覚や、輝く“真我”に触れて、大自然のようなご自身の豊かさを音楽をとおして実感してもらえるような活動をしたい。その活動に調和する家を建てたい。
宮城県内に数多あるなかから、夢を叶えてくれる工務店をデータに頼るよりも感覚を研ぎ澄ませて選ぶことに決めました。新居のビジョンが具体的になった時、出会いがありました。(『満天星の里へ6.に続く』)
昨年春に緊急事態宣言が発令され、すべてのステージとコンクール審査の仕事がなくなったほか、自宅で毎月行ってきた“大人のための音楽講座“も休講にせざるを得ない状況になりました。
先が見えない不安や、見えないウィルスへの恐怖がいやでも増幅しがちなこんなときこそ、私たち音楽家は音楽をとおして希望を届けなければいけないのに、それが叶わない。これでは何のために音楽家をしているのかわからない…その無力感は私にとって、コロナへの恐怖を大きく上回るものでした。
少しでも心の健やかさを支え、育む手伝いがしたい。自分にできることはないだろうか。あるとしたらそれはなんだろう?…その苦肉の策として、YouTubeでバルトークのピアノ作品の配信 を始めたという経緯は、これまでにもお話してきたとおりです。
バルトークが果たしたいと願っていた使命は、自国の民俗音楽をとおしてすべての民族がつながっていることを伝えること。そして民俗音楽のもつオリジナリティーやユニークさ、素晴らしさは、その扱い方によって芸術音楽に充分昇華させうるということの実証でした。
“すべての人に音楽を”というモットーを胸に、初等音楽教育において自国の音楽と母語を丁寧に扱うことの大切さを説いたコダーイも、バルトークに大きな影響を与えました。
YouTubeの番組製作にあたって彼らの音楽を学びなおし、演奏や解説からアウトプットするうちに、日本人として日本に生まれ育った自分は、果たしてどれだけ自国の音楽やわらべうたを学んできただろうか、という疑問がつのりました。そして、日本人として…と考えているうちに、日本のなかでも自分を育んでくれた故郷のことが気になり始めました。
傘寿を迎えたばかりの母が脳梗塞で倒れたのは、そんなある日でした。「故郷に帰りなさい」天からはっきりときこえてくる声を、もはや受け流すことはできませんでした。
すみかは、実家の近くに適当な中古物件があればそれでもいいけれど、できれば地元に根ざした活動の拠点となるような“場“としても機能できるようなスペースを作りたい。地域の皆さんと協力しあって、皆さんとともに少しでも社会に貢献できる活動に関わっていきたい。八千代でも行ってきたように、地域の小学校などでのアウトリーチ活動もしたい…帰郷を決意するやいなや、子どものように将来への夢があふれ出てきました。
故郷、地元、地域…キーワードを並べてみると、私たちの日常生活のなかでは、それらがいつの間にか“無意識的に意識されなくなってきている“のではないかという気がしてきました。
例えば、日本で収穫できる野菜や穀物を、わざわざ輸入する(“大人の事情“があるのはわかりますが)。日本語にそった、日本語で歌いやすいわらべうたが豊富にあるのに、保育の現場では歌いにくいアニメソングやディズニー映画の歌の方が選ばれる。地元の商店からではなく、量販店や大型ショッピングモールで買い物する方が多くなっている。などなど。
調べてみると住宅の建材も、今は輸入されたものが使われることがほとんどだということがわかってきました。日本には日本の風土にあった建築工法があるのに、建材ばかりか工法も外国のものが採用されることが増えているそうです。自国の良さに目をむけることが減っているのは、音楽の分野だけではなかったのです。
尊厳、というとおおげさですが、人間にとって自分のアイデンティティを受容し、それを誇りに生きることはとても大切だと思っています。故郷、母国を愛し、ありがたく感謝する心を育む幸せを、私たちはどれだけ享受できているのでしょう。
故郷で果たしたい夢がどんどん膨らむのと連動して、住まう家についても夢が湧いてきました。「もしも叶うなら、宮城県産の材で建てたいなぁ。できることなら木材以外の建材もなるべく自然素材を使って、宮城県の大工さんに日本の在来工法で建ててもらいたいなぁ」
かくして、自然に抱かれ、大地に感謝して生きていくにふさわしい土地と、それを叶えてくれる工務店探しに明け暮れる日々が始まりました。幸い前者はすぐに決まりましたが、後者の方は何から手をつけたら良いものかわからず、難航しました。(『満天星の里へ』5に続く)
食べものの話は、どうしてこう楽しいのでしょう。郷土の食べものの話はことさらに、です。
つい熱くなってしまうのは、やはり食べものの話題が多いように思います。例えば、好きなお米の銘柄は何か?という話になると、ほとんどの方が「そりゃあコシヒカリでしょ?」とおっしゃる。わからなくはありませんが、東北育ちの私としてはどうも釈然としません。新種に押されてほとんど作られなくなってしまったササニシキは仕方ないとしても、”ひとめぼれ”が好き、という人が一人くらいはいてもいいのに、という思いで、熱を込めて言ってしまうのです。「私はひとめぼれ!」
江戸前のお寿司について話すときも、「あそこのお店はネタがすごく大きいから好き」と聞くと、「いやいや、お寿司の主役はむしろシャリでしょ。ネタの大きさより、シャリとのバランスを重視したいな」と、つい勝手な知見を言いたくなってしまったり。
お菓子の呼び方に至っても、何人か集まるとそれぞれあるようで、「それ、大判焼きっていうのよ」「ううん、今川焼きです」「えー?聞いたことないなぁ」とか、「歌舞伎揚げ、よく食べたなぁ」「何それ?ああ、ぼんち揚げのことね」という調子。こんな会話からも、首都圏にはあちこちからの出身者が集まっているのが伺えて、楽しいものです。
調味料の好みも然り。麦麹の甘い味噌が好きという人、きりっとした濃い色の田舎みそがいちばんという人…いろいろです。その土地土地に独自に伝わる郷土料理のように、料理やお菓子、食材(特に魚)の呼び名もさまざまで、言葉の上からも食文化の豊かさを感じます。
私の両親はいずれも東北出身者ではありません。ゆえに、郷土料理や地元のお菓子が食卓に上がることはあまりなかったように思います。仙台の幼稚園に通っていた頃、近所のお友達Sちゃんの家に遊びにいったときに、Sちゃんのおばあさんが見たこともないおやつを出してくださいました。それは、千代紙のような柄の箱の中にひとつひとつ綺麗な包装紙で包まれて鎮座していました。
おそるおそる手に取るとお餅のような柔らかでした。「これ…なんていうの?」「”ゆべし”っていうの。美奈子ちゃん、食べたことない?」「うん。いただきます」
ぎゅうひのような柔らかさ。幸せな甘さとともにかすかなお醤油の香りと塩気が口のなかに広がります。もちもちした餅米の生地に入っているくるみの風味と食感がアクセントになって、なんとも言えない、うっとりするような美味しさでした。こんなに美味しいお菓子があることを、ママは知っているのかしら。もし、知っているのに食べさせてくれなかったとしたら、これはおいそれとは食べられないような特別なお菓子なのかもしれない…。
食べ終えたあと、よほど真剣な面持ちで箱に入ったゆべしを凝視していたのでしょう。Sちゃんのおばあさんは私の気持ちを察して、「美奈子ちゃん。美味しかったなら、もうひとつ食べてもいいのよ」と勧めてくださいました。ふたつめも夢のような気持ちで平げたら、今度は「ふたつもいただいてしまった。ああ、これでもう”ゆべし”は一生食べられないかもしれないのだ」という、なんとも切ない気持ちでいっぱいになりました。
そのとき、Sちゃんとどんな話をしたかは、情けないことに全く覚えていないのです。とにかく、頭のなかはひとつのことでいっぱいでした。あとひとつ…最後にあとひとつだけ食べたいけど、そんなこと言い出したら流石におばあさんに呆れられちゃうよね?お行儀が悪いと怒られちゃうかもしれない。でも、お願いしないで諦めてしまったら、この先ずっと後悔するかもしれない。どうしよう、どうしよう…。
「もうひとつだけ、食べてもいいですか?」ついに私は言いました。小さな声で、でも精一杯丁寧に。おばあさんはにっこり微笑んで「あらあら、いいけど夕ごはんもちゃんと食べなさいね」とおっしゃいました。今思い出しても、赤面してしまうような思い出です。
美味しい、と感じた食べものへの食い意地ははっていましたが、普段は食が細いほうでした。ある程度、遠慮することもできていたと思います。それが、小さな理性をぬぐい捨てて、おばあさんにこんなに”おかわり”をねだったということは、よほどの衝撃を受けたのです。そういえば、気にいると何度でも”おかわり”をリクエストする子どもでした。何度も繰り返し同じ絵本を読んでもらったり、何度も同じ歌を歌ってもらったり…。
その後程なくして父が転勤になり、家族で名古屋に引っ越すことになりました。”ゆべし”は、食べたときに予感したとおり、その後10年以上も食べる機会はありませんでした。
名古屋には”ういろう”というお菓子がありますが、それは茶色くて小さいゆべしとは違って、目を引くような白やピンク色をしていて、しかも羊羹のように立派なものでした。いつの間にか私は”ゆべし”の存在を忘れていました。それだけに、10数年ぶりに再びゆべしを食べた時の懐かしさは強烈でした。Sちゃんの家でご馳走になった時の光景やその時の自分の気持ちが、一気に甦ったのです。それも、かなり鮮明に。
それからさらに、たくさんの月日が流れました。ゆべしに限らず、子どもの時に出会ったお菓子も歌も、その当時のことをよく覚えています。例えば幼稚園の”園歌”は今も歌えますし、久しく食べていない駄菓子のように日常的に触れる機会がないものであっても、初めて食べたときの印象や一緒にいた人と交わした会話など、面白いほどに記憶しているのです。
それらはまるで精緻な織物のように色とりどりの糸を絡めあって、愛おしいような模様を成しています。”ゆべし”の一場面があれほどまでに鮮やかに思い出されるのは、仙台のSちゃんの家のにおい、炬燵のぬくもりとおばあさんの優しい声、土地の人に愛されている郷土のお菓子…それらがえもいわれぬ調和を成し、心満たされるような幸福感となって私を包んでいたからかもしれません。
仮に、同じものがただテーブルの上にポンと置かれていただけだったら、果たしてこんなに鮮烈な思い出となって記憶されていたでしょうか。また、それがゆべしではなく、どこにでもあるようなスナック菓子だったら、きっとなんの印象も残らなかったことでしょう。
ゆべしのささやかな思い出をふり返えるにつけ、食べ物も、音楽も、風土も、人も…みんながひとつの世界を作っているのだ、みんなひとつに繋がっているのだ、と、しみじみと感じるのです。(『満天星の里へ』4に続く)
「人生最後の食事には、何が食べたい?」…という問いかけが流行ったことがありました。「無人島に一枚だけ持って行くなら、何のCD?」という類いのものでしょう。二つ目の質問にきちんと答えたことは、未だありませんが、自分のCDではないことだけは確かです。
最初の質問にも答えに窮して、「う〜ん、わからない。何かなぁ」と、お茶を濁してきました。もうそれが最後だと分かっていて、なお、あえて何かを食べたい気持ちになるだろうか。最後を少しでも清らかな身体で迎えるためにも、無駄に食べ物を摂取したいとも思わなくなるのではないか。食べるという行為は生きるという行為のためのものなのだから…と、真剣に考えてしまうので、軽いノリで聞いてきた相手はしらけさせてしまいそうで本当の気持ちを答えにくいのです。
でも、単純に”いつでも食べたい!一番好き!”という食べ物は?という問いなら、即答できます。“ごまだんご”が、その答えです。
中華料理店のメニューにある、ごまをまぶして揚げたものではありません。串にお団子が三つほどささっている、宮城県でないと食べられない串団子のことです。「ごまのあんこがのったお団子なら、関東だろうが九州だろうがスーパーで手に入るのでは?」と思われる方が多いかもしれません。が、私の愛してやまないのはそれではなく、大崎産の餅米”みやこがね”から作られたお団子に、美しく艶やかな漆黒のごまだれがたっぷりとのった、宮城県の”ごまだんご”なのです。
みやこがねで作られたお団子は、頬張ると口のなかに身体中にお米の香りがふわ〜っと広がります。お米以上にお米の恵みを感じさせる香りです。歯がない方でも食べられるほど柔らかく、何も付けなくても食べられる美味しさで、当然、作った当日しか日持ちがありません。というよりも、日持ちさせることを前提にしないからこそ、このクオリティが実現するのです。
同じみやこがねのお団子に、ごまの他にくるみやずんだもあります。くるみは滋養がたっぷり。渋皮を取り除いているので色は白に近く、味わいもコクがあってファンが多いお団子です(写真一番向こう)が、なんといっても一番人気は色鮮やかなずんだ。すり潰した枝豆の爽やかな色といい、適度なつぶつぶ感の残る楽しい食感といい、枝豆の香りといい、間違いなく幸せになれる一品です。
さて、本命の”漆黒のごまだれ”はというと、もうこれについてはとても私の筆力ではその素晴らしさをお伝えできないので、野暮な説明は差し控えます。まさに、”筆舌に尽くし難い”としか言えないほどのレベルの美味しさなのです(*感想は個人的なものです)。地方の名物には持ち帰れるものとそうでないものがありますが、完全に後者に入るものですので、これは是非宮城県に足をお運びいただくしかありません。
同じ原料で作られたお餅もあります。それぞれくるみ餅、ごま餅、ずんだ餅と呼ばれ、お団子よりも親しまれているかもしれません。両方とも同じくらい好きですが、片手で食べられるお団子により親しみを感じます。
もともと和菓子は大好きで、甘い煮豆を作ったり、栗蒸し羊羹やかるかん、栗きんとん、ずんだのきんとん(写真参照)や桜餅など、「食べたい!」と思ったものを果敢に自作した時期もありました。
母には折に触れて「ごまのおだんごって美味しいよね。大好きなんだけど、関東にはないのよね〜」とアピールしているのですが、実家に帰る日にごまだんごを買っておいてくれたことは、未だかつて皆無。母はおやつのことよりも、なんの手料理を食べさせよう…という思いで頭がいっぱいになってしまうのでしょう。それでも食べたい食べたい、と猛烈にリクエストして、やっとありつくことができたのは、2017年4月28日が最後です(写真参照。勇んでお箸を入れてから撮影したため、ずんだが一部乱れています)。日付を記録しているというところに、我ながら執念を感じます。
ここまで読んでくださった方は「なんて食い意地が張っている人でしょう!」と、半分呆れていらっしゃるかもしれません。そのとおりです。つつみ隠さず告白しますと、移住を決めた理由の一つに、この”食”の要素があるのです。
幸せを感じるものを、普段どれだけ食べることができているのか。心を満たし、身体が喜ぶものを食べているのか。…それは私の場合、贅沢な食材や貴重な珍味ではなく、顔馴染みの人が作った農作物、旬の食材でこしらえる素朴な郷土料理や、ごまだんごのような、なんでもないけれどその土地ならではの食べ物なのだと分かりました。
人間の命は食べ物によって支えられ、食べ物で作られます。とすると、私の思考や演奏する音楽も、私が食べた物からできていることになります。食事は、単なる“燃料の補給”ではないのです。
江戸時代には、人口の9割近くが農業に携わっていた日本。たとえ暮らしは質素なものでも、地産地消は当たり前、農薬を使わない米や野菜を食べ、手作りの保存食や発酵食品からの滋養を蓄えてきたからこそ、人々は嵐のような明治維新の大波を乗り越えることができたのかもしれません。
グルメ志向やトレンドを追うだけでなく、その土地に根ざし、伝えられ続けてきた郷土の”食”も大切にしたいものです。帰郷し、田舎の空気と地元の食材で身体を満たした自分からどんな音、どんな音楽が湧き上がってくるのかしら。…そんなことを考えてはわくわくしています。
先週末、帰省しました。今年の秋から移住する、宮城県柴田郡に建てる新居の打ち合わせのためです。
昨年、一目惚れして購入した土地は川崎町という場所にあります。「え?仙台じゃないの?」「なんでまた川崎町に?」周囲からそんな声がたくさん上がりました。もちろん、当初は仙台市内の物件も検討したのですが、土地が高すぎたり、中古や新築の建売住宅は防音のための大掛かりなリフォームが必要だったりで、なかなか良いご縁がつながりませんでした。
川崎町は国立公園や大きな湖があるだけでなく、“御釜”という愛称で知られる蔵王連峰の名所や温泉、桜に囲まれた大きな湖、森林、山女や岩魚が泳ぐ美しい渓流などがある自然豊かなところです。実家からは車で20分強。妹、弟の住む場所と所要時間的にはほぼ同じで、何かあったらすぐに駆けつけられる範囲だということも決め手になりました。
宮城県民から千葉県民になってはや22年。人生で一番長い時間を過ごしたこの地への愛着はとても大きいものですが、ピアニストとしてデビューして以来たくさんのステージ経験を重ねさせてもらい、母校で10年間教鞭もとらせていただいたうえ、芸術選奨新人賞という名誉までいただいた大切な故郷に、これまで恩返しらしいことが何もできていないことも気になっていました。
無理を言って好きなことをさせてもらったうえ、今も誰よりも応援してくれる両親のそばにいたいという思いにも、背中を押されました。
移住の意思が固まったのは、半年間毎日続けたYouTubeの“バルトークチャンネル”を収録しはじめた頃です。ハンガリーやルーマニアの農民音楽の世界にどっぷりと浸かっているうちに、いつしか故郷の山や土に焦がれる思いが溢れんばかりになっていました。
帰省のおり、新幹線から磐梯山が見えてくるたびに「ああ、もう少しで仙台だ」と、安堵と嬉しさが込み上げて、思わず深呼吸をしてしまいます。そういえば、山がない都会に住む東北人は皆、同じことを語ります。「…でも、ここには山がないんだよね」
山を愛で、土を感じながら毎日を生きることができたらどんなに幸せだろう…それは無意識のうちに、いつしか自分の夢になっていたようなのです。
故郷への思いが深まるにつれ、心にある変化が起こりました。物心ついた頃から西洋の芸術音楽の世界に身を置き、日本人である自分の感覚や日本語のもつ音楽的語感を押し殺してまで、“ヨーロッパらしさ“を取り込もうと必死になってきた自らの姿が、客観的に見えてくるようになったのです。そして「自分はこれまで、どれだけ日本人であることを楽しみ、味わい、感謝できていただろう」…そんな問いかけがしばしば聞こえてくるようになりました。
さて、実家での打ち合わせは三人の担当者の方々と和気藹々と進み、翌日には現地で川崎町地域おこし協力隊の方々ともお会いして、移住にあたっての有意義なお話を伺うこともできました。この地でどんな活動ができるだろうか。どうしたら地域の皆さんに受け入れていただけるだろうか。…帰りの新幹線に揺られながら、課題を整理しました。
帰宅途中、隣町で初めて見かけたパン屋さんにふと立ち寄りました。お店を切り盛りしているのは中国出身の女性でした。コロナ禍という逆風の中、昨年お店をオープンさせたのだそうです。いろいろ大変でしょう?と尋ねると、「そうですね。でも、ずっと願い続けてきた夢が叶ったから、嬉しい気持ちの方が大きいです。大変なのはどんな時でも同じだから。前の職場で働きながらパンの勉強と店を開業する準備をしてきたの。だから、今がいちばん楽しいです」と、人懐こい笑顔で答えてくれました。
「中国のパンは蒸すか揚げるかで、焼いたパンはないの。だから、日本のパンを初めて食べた時『なんて美味しいんだろう!』ってすごく感動した。私、見てわかるとおり食べることがとても好きなんです。でも、食べられる量には限界があるでしょう?だったら、美味しいものをたくさん作ってそれを売って生きていこうと。美味しいパンを作ってるだけで私、幸せを感じるの」
彼女のまっすぐな気持ちに触れ、心が震えました。「今がいちばん楽しい」一年後私もそう胸をはれるように、これからの毎日を積み重ねいこう…そんな、決意と希望と覚悟が入り混じったような気持ちに包まれました。
彼女の笑顔は、今回の帰省の清々しいエピローグになりました。(『満天星の里へ』2に続く)
あなたにとって、もっともかけがえのない大切なものとはなんでしょう。
「命」と答える人が多いかもしれません。その命とは、自分の?それとも家族の命?あるいは人全体の命でしょうか。それとも、この世界に生きとし生けるものすべての命のことなのか、破壊と再生を繰り返している宇宙全体のすべての命に及ぶのでしょうか。
なぜそれが大切なのですか?そして、何よりも大切な“それ“を守るために、日々どんなことを、どんな思いで積み重ねていますか?
緊急事態宣言のもと、不要不急の外出を控えなさいとの警告を受けています。趣味の集まりを控えている方もいらっしゃる一方では、何百人を動員するイベントが“細心の注意を払って”行われてもいるという混沌のなかに、私たちはあります。
これからさらに様々な情報が錯綜し、何が正しいのか、いかに判断したら良いのかを模索する人が増えそうな気配です。不確かなものにまみれ、もはや何を信じたら良いのかわからない、という悲鳴のような声も聞こえます。
数日前、朝起きてぼんやりカーテンを開けたときにふと、感じました。「世界は確かなものに溢れている…」と。たとえば、太陽が昇らない朝はありませんし、朝の空気の清々しさや雲ひとつない青い空の気持ちよさ、旬の野菜の美味しさ…どれも、そこにアンテナを向ければ誰もが受け止めることのできるものです。
嬉しい、悲しい、綺麗!…という感情も、目には見えませんが心のなかに確かに存在していますし、幼少時代の記憶や楽しい思い出も、私たちの心の中に確かに刻み込まれていて、恐怖とは対極の愛おしい気持ち、慈しみの気持ちを呼び覚ましてくれます。
正体の明らかになっていない、暴れん坊のウィルスを除いたら、世界はこんなにも素晴らしいもので溢れているし、地球はどんな時もせっせと動き続けてくれています。地球だけではありません。私たちの身体の細胞も、“確かに”生まれ変わっています。
不確かなものに怯えるよりも、愛おしいものに目をむけ、感謝すること。それが、“かけがえのない大切なもの”を本当に大切に扱うことにつながるのではないでしょうか。
、、、、
雨が私たちにもたらす喜びは
きれいな雨音をきくことだけではありません
たとえば
雨上がりに 樹々や落ち葉たちが
ひときわ輝いているのをみるのは
なんとも気持ちのいいものです
大地にかえろうとしている葉っぱ
葉っぱを迎え入れようとしている大地
そのふたつの間に命の境界線を見いだすことは
困難です
落ち葉 木 大地
それをつつむ大気に
わたしたちもまた抱かれている…と感じる時
わたしたちはおおきな“ひとつ”になります
だから 心配しないでね
水分をふくんで
柔らかく優しいふわふわの絨毯になった落ち葉たちが
にこにこ笑いながら
そう、ささやきました
水仙、福寿草、ふきのとう…
梅のように雅な風情や華やかさはありませんが
雪や霜にも負けず土の近くで咲く、黄色い花たちの素朴な姿は
わたしたちの心をふんわり温めてくれます
先日、生徒さんが
八丈島から届いた大きな大きなレモンをお裾分けしてくれました
普通のレモンと比べると、大きさだけでなく色もパワフル!
強力なエネルギーを感じます
ひとつは塩レモンに
もうひとつははちみつ漬けに
実だけでなく皮も、食感も酸味も柔らか
きれいな色といい良い香りといい
からだが喜ぶおいしさです
それにしても、元気いっぱいに輝く黄金色の
なんと美しいこと!
こんな食物には、きっと
体のために良い働きをする、科学的に証明される栄養だけでなく
心のために良い働きをしてくれるような成分が含まれているに違いありません
ひとくち食べるたび、全身の細胞が気持ちよく目を覚まし
「おはよう!」という声が聞こえてくるようで、楽しくなるのです
そして、つい今しがた
昨年の秋、突然逝ってしまったiMacの後継機が届きました
ただでさえ人気の機種をアップグレードしたこともあり、
注文から1ヶ月後の本日、やっと手にすることができました
Apple社らしいシンプルで美しいパッケージを開けると
すらりとしたプロポーションの
エレガントなアスリートのような出立ちのパートナーが
姿を現しました
それは、“届いた”というよりも
まさに、颯爽と“現れた”という印象でした
色はAppleによると“ゴールド”ということですが
黄金色というよりもブロンズのような
穏やかであたたかみのあるニュアンスの色です
末長く、良き相棒としてそばにいてくれますように…
それにしても、黄金色のレモンといい新しいパートナーといい
今年の私のラッキーカラーは“ゴールド”…なのかしら?
新年早々の4日、仙台からの帰りにお世話になっている歯科医院に立ち寄り、親不知(左下)を抜歯しました。
ペンチ(?)だけでは抜けなくて、一本の歯を幾つかに解体して…と、大変な大工事…もとい、大手術(⁉︎)でしたが、その間、抜かれていく親不知に「今までありがとうね〜」と、心のなかで声をかけ続けました。
その一週間後無事に抜糸をすませ、すべての治療を終えた帰り、歯医者さんの近くの意富比(おおひ)神社(*別名は船橋大神宮)にお参りしました。1000年以上の歴史をもつ天照皇大御神が祀られている、伊勢神宮ともゆかりの深い神社です。
主祭神を天照皇大御神とする意富比神社は、古くから太陽信仰と深い関係があったことから意富比神は「大日神(偉大な太陽神)」が原義であるとする説もあるそうです。
その日は雲ひとつなく、まさに太陽神のお参り日和でした。
たくさんの松の木が枝を伸ばす広々とした境内には、徳川家康公が船橋宿泊時に漁師の子供達の相撲を供覧したのが始まりと伝わる土俵があったり、1880年に建てられた木造三階建て瓦葺きの灯明台があったり…と、そぞろ歩きも楽しめるパワースポットになっています。
移設された手水舎は、横に置かれた竹の節の継ぎ目からぽたぽたと落ちる水でお浄めする、というしつらえ。賽銭箱の前にある本坪鈴を鳴らす鈴緒も取り除かれていたりと、随所でコロナ感染予防対策がとられていました。
御本尊の他にも金毘羅神社、常磐神社、大鳥神社などたくさんの神様が祀られ、参拝者はそれぞれ思い思いに好きな神様の前で手を合わせていらっしゃいました。稲荷神社にはめずらしく子どもと一緒の姿のお稲荷様がいらしたのですが、その奥に小さなお稲荷様が所狭しとたくさん並んでいました。その様子があまりに愛らしいので、不謹慎ではありましたが写真を撮ってしまいました。
参拝のときには、前の人のお祈りがすむまで数メートルほど離れたところで次の人が待ちます。そして、すれ違うとき、人々はごく自然に会釈を交わします。いつも当たり前のように目の当たりにする光景ですが、神様がちかい場所のせいか、やさしい陽射しのせいか、その姿がなんだか清々しく、また美しく映りました。
ところで、フランス人はドイツの音楽を弾く時も“フランス語“で弾いている…以前、そんなふうに感じたことがあります。
思い起こすに、日本人は昔から実に柔軟に、また巧みに異文化を“受け入れ”続けてきました。例えば奈良時代には漢字や漢詩をはじめとする中国の叡智を、明治維新以降は西洋の文化・文明を。
そんな日本人を“自分がない“と言う人もありますが、それは違う気がします。受容するのは拒絶することよりもずっと難しく、このように柔軟に“受け入れる“ことは、おおらかな寛容さや確固たる信念がなければできないと思うからです。
この、“他者を受け入れることに長けている“というのは、日本人の持っている大きな美徳のひとつではないでしょうか。日本人はそんなDNAを持っているのだという誇りを胸に、地球人が心を一にすることが求められている今こそ、その素晴らしさを世界に発信するときなのではないか。ひいては西洋の芸術音楽も、臆することなく“日本語のセンス“で弾いても良いのではないか。
そんなことをぼんやり考えながら、参拝客の打つかしわでの音と鳥のさえずりが響く境内で、静かなひとときを楽しみました。
この世に懸命に生きているわたしたち皆の
心も身体も、健やかでありますように
鉛筆が好きです。
真っ黒ではない芯の色も、シンプルで転がりにくい六角形のデザインも。筆圧の弱い子どもには柔らかいものを…など、芯の硬さを選べるのも、ゴリゴリ削るときの音や感触、におい?も好きです。
ところで、鉛筆の芯に鉛は使われていません。使われているのはダイヤモンドと同じ炭素でできている黒鉛とドイツの粘土。それらを混ぜ、1000°〜1200°の炉で焼き固めるそうです。
と、このように鉛筆の芯は天然に産出される炭素と土からできていて、鉛筆に使われているのはヒノキなどの柔らかな木。鉛筆を持つ感触は、わたしにとって、シャープペンのプラスチックのそれとはまったく別もの…あたたかさを感じます。
実は、昨年10月初旬からずっと右手親指にバネ指とガングリオンを併発していました。親指がうまく曲がらず(曲げると戻るときカックン‼︎となる)痛みもかなりあり、普通に鉛筆を持つこともできない日々でした。
通常だと、この症状がしばらく治らない場合はステロイドをふとい注射器で打ったり(かなりの激痛らしい)、切開手術を行う治療になるとのこと。
「症状が治るまで、しばらく練習は控えてください」と、整骨院の先生にご指導いただいたものの、11月のコンサートや毎月の音楽講座、レッスンでのデモンストレーションなど、仕事のために(=生活のために)ピアノを弾かないわけにはいきません。
先生に心の中で「ごめんなさい!弾かないと治療に通うこともできなくなくなってしまうのです」と謝りつつ、親指の角度に意識を向けながら恐る恐るピアノの練習を続けてきました。ところが、比較的長時間にわたる練習によって(親指を曲げずに弾く特殊な指づかいとテクニックで)も、ありがたいことにある一定以上に痛みはひどくならないのです。
日や時間帯によって楽な時と激痛のある時など、症状にばらつきがあることを鑑みて、「これは西洋医学に頼らず治せるのでは?」と、直感的に感じました。
そこで、「あなたに負担をかけないよう、ゆっくりゆっくり治していきます。3ヶ月で治したいから協力してね」と、毎日自分に言い聞かせ、ヨガやマッサージをしたり、整体に行ったり、身体を温め負担のない程度にピアノの練習もすること3ヶ月…。
年が明け、まだ完全ではないものの、ほぼ完治しました。
“病は食事や生活習慣の改善と運動で治癒できる”ことを、少しだけ実践できて嬉しいです。でも、治療のいちばんの立役者は「自分はきっと治せる」という気持ちだったかもしれません。
“人が想像できることは、人は必ず実現できる“。SFの父と呼ばれるフランスの作家ジューヌ・ヴェルヌの言葉とされているこんな文言がありますが、それを信じて夢に向かい続けるのも、信じないで諦めてしまうのも、私たちの自由。
不穏なウィルスによる影響も含めて何かと先行きの見えない2021年ですが、未来は見えないからワクワクできるというもの。私は彼の言葉を信じ、それを少しずつ叶えていく年にすることにしました(このように“断言”することが大切だそうです)。
今、親指を曲げて鉛筆を持てる喜び、芯が紙と触れる時の滑らかな感触を味わいながら字を書ける幸せを噛みしめています。もちろん、親指を気にせずピアノを弾ける喜びも。
昨年はコロナ禍で世界が揺れに揺れた一年でしたが、個人的にも春先に母が脳梗塞で倒れ、年末には身内が亡くなるなど、波乱の年でした。また、残された時間をどう生きるかなど、大切なことについて考えさせられた日々でもありました。
世の中が不穏なウイルスで騒がしくなる前の2019年12月28日、ハンガリーの作曲家であり音楽教育者であったエルジェーベト・セーニ先生が95歳で天に召されました。
セーニ先生はコダーイの一番の愛弟子とも言われていらっしゃる方で、交響曲、室内楽やオラトリオなど、素晴らしい作品を数多く残していらっしゃいます。
先生が逝去されて一年後の12月28日、先生を偲んで子どものために書かれた曲をふたつ、弾いてみました。
セーニ・エルジェーベト作曲:まあるいケーキ
:緑の森の露
2つのうちのひとつ『緑の森の露』は連弾作品です。実家に帰っているので母に共演を頼んだら思いのほか二つ返事で承諾してくれて、2020年の最後に初めての親子連弾共演が叶いました。
2021年が幕をあけました。皆さまのご健康とご多幸を心からお祈り申し上げます。
現在、「ピアニストのひとり言」のArchives化を進めています。近日中に公開の予定ですが、それまでの間、各年の連載は以下のリンクよりご覧いただけます。
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