第593回 フルヴァツカをいく!⑧
スプリットからドブロブニクに南下する長距離バスの車窓は、とにかく絶景につぐ絶景続き!後ろの座席のひとり旅らしきイギリス人女性は、ほぼ10秒に一度のペースで写真を撮り続けていました。それもそのはず、バスは紺碧のアドリア海や自然が創造した芸術的な絶壁をなぞるように、海岸線に沿ってつくられた国道を走っていったのです。
ふと、バスが停車しました。「パスポートコントロールです」と、運転手さんがアナウンス。「え?なんだろう?」…不勉強なことに、私はこの時初めて、クロアチアの一部は分断していて、途中ほんの数キロではありますがボスニア・ヘルツェゴビナを通過しなければその向う側に行くことができないことを知ったのでした。時おり、岩肌に残された弾丸のあとも見えました。紛争の爪あとは、夢のように美しいブルーと銀色のしぶきにきらきらと輝くアドリア海の波の穏やかさとまさに対照を成し、なんとも痛々しいものでした。
そして、再びクロアチアに“入国”。バスはさらに南下を続け、やがて到着したドブロブニクの港にはたいそう立派な客船が停泊していました。長距離バスターミナルは旧市街地からは少し離れたところだったので、予め調べておいた7番の路線バスで、今日から3泊お世話になるアパートメントに向かいました。
ドブロブニクの印象は?と聞かれたら…。私はまず「人がとても親切なところ」と答えるでしょう。宮崎駿監督のアニメ映画『魔女の宅急便』や『紅の豚』などの名作の舞台になった旧市街地の景観はもちろん素晴らしいのですが、なんといっても人々がのんびりしていて、なおかつとても温かいのです。
例えば。宿の最寄りのバス停を降りると、すぐに黒いセダンが私の真横に停まりました。「君、どこにいくの?ホテル?場所は分ってるの?」「ホテルではなく、個人経営のアパートメントです」「そうかい。大丈夫?そこは、分りそうかね?」むむ、なんだろう?…ちょっと警戒しながら「はい。住所は分っていますので大丈夫だと…」「いや、ね。ここら辺りはすごくフクザツなんだよ。新入りの郵便配達員も迷うんだから。つまり、かなり“テクニカル”なんだよ」「そ、そうなんですか?」「宿の住所、どこ?」「○○○通り…」「ああ。そりゃ難しい!いいかい、まずは今から僕が曲がるところを君も曲がりなさい。その先はとにかく、何度も人に尋ねるんだ。いいね?分った?」「はい、そうします。どうも、ご親切に…」
何台かの後続の車は、私たちの会話のあいだずっと待たされていたのですが、クラクションを鳴らす人は誰もいませんでした。ほどなく私は、黒いセダンの紳士は怪しい人ではなく、本当に心配してくれていたのだ、と思い知りました。道は細く坂は急で、確かにとてもフクザツだったのです。紳士の言うとおり、私はいろいろな人に聞いてまわったのですが、距離的にはもう近いはずなのに、近所の人に住所を告げてもなかなか分ってくれません。
それでも、いろいろな人に尋ねてやっと住所の場所に到着できました。やれやれ、と思ったのもつかの間、鍵が閉まっていますし、誰もでてきません。オーナーがたまたま不在なのでしょうか?う~ん、困った。ここでしばらく待っていればいいのかしら…。しばし立ちすくんでいると、通り向かいの家のテラスでくつろいでいたベリーショーの女性が「どうしました?」と、声をかけてくれました。「あの~、私の宿…ここで場所はあっていると思うのですが、鍵がかかっているんです」「どれどれ…ああ、これね、オーナーは別のところに住んでいるのよ」「え?」「連れてってあげるわ。私についていらっしゃい」
彼女は、そこから100メートルほど離れたところの建物の前で振り返り「オーナーの家は、ここよ。確かにあなたのアパートメントはさっきの建物だけど、彼はここに住んでいるの。呼び鈴を鳴らしてごらんなさい。誰かでてくるはずよ」言われるまま呼び鈴を鳴らすと、果たして、中から品のよい初老のご婦人が出てきました。「今日からお部屋を予約しているものです」と名乗ると、「ああ、ミナコ・スズキね?どうぞ中へお入りになって…」と、招き入れてくれました。ああ、よかった!
「バスでいらしたの?暑かったでしょう?今、息子を呼んできますから、ちょっとお待ちになって。庭のテーブルの方が気持ちがいいかしらねぇ。そうだ、何か飲み物を持ってきましょうね…」ご婦人はオーナーのお母さまでした。ほどなく、「お好きかどうかわからないけど…これなんてどうかしら?」微笑みながら、ポーランド産のレモンビールのボトルとグラスを持ってきてくださいました。「うわぁ、嬉しい!ありがとうございます」「ごゆっくり、ね…」テーブルの上には葡萄棚がしつらえてあり、庭にはたわわに実をつけたレモンの木やらハーブが繁っていて、小鳥のさえずりだけが聞こえます。汗をかきかき、やっと目的地にたどり着いてのビールの美味しさときたら格別でしたし、まるで知人の家に遊びに来たような、素敵なひとときでした。
「いや~、よく来たね~!っていうより、よく“来られた”ね~!」静けさが一瞬にして賑やかさに変化するような、大きな声が聞こえてきました。オーナーの登場です。「君からのメールが来ないから、ちゃんと来られるか、心配していたんだよ。到着時間を知らせてくれれば、ターミナルに迎えに行ったのに。よくここがわかったね~!」「とにかく、何人もの方に尋ねて…。やっとたどり着きました」「だろうね。ここらへんときたら、たとえ住所が分っていたって、わからないところなんだから。でも、おかげでめちゃくちゃ治安がいいのさ。なぜかっ?…犯罪者がおいそれと入りこめないから。入りこんだところで、逃げられないしね~!」
オーナーのスティービーは、物静かで上品なものごしのお母さまとはおよそ似つかない、ラテン的“濃さ”のお手本のような風貌と、情熱的な語り口の持ち主でした。部屋をひと通り案内し、Wi‐Fiなどの説明を終えてからも、スティービーのガイダンスは続きました。「7番のバスできたんだよね?長距離ターミナルからだもの、そうだよな。でも、7番のバスのことは忘れなさい。これから君の使うバスは6番のみ!実はそれこそが、君がさっき降りたバス停ではなく、ここから歩いて2分のところにあるバス停から、旧市街地に一本でいける路線なんだ」「ドブロブニクカードが得かどうかって?僕は薦めないな。なぜかっ?実は、よほど割引の特典を意欲的に使い倒さないと、モトがとれないんだよね。例えば、明日は月曜日だろ?休館になってる美術館が多いじゃない?だいたい、美術館は学生証を見せればそんなカードなんてなくても半額になったりするんだから。ね?計算してみると、案外損だったりするわけだよ」
他にも「バスに乗るときは、予めチケットを買っておくこと!なぜかっ?…ここでは、運転手から買うと料金が割高なんだ。ふん。いかにも観光地って感じだよな~」「ミニバスのツアー参加に興味があるなら、自分で決めずに僕に相談しなさい。街中のエージェントはほとんどが割高なんだ。なぜかっ?…」この街で無駄なお金をつかわないためのレクチャーは、約一時間に及びました。どうも彼は、わずかな荷物しかない私のことを、旅行好きな学生だと思っていたようでした。
話し出すととまらない、スティービーの弾丸トーク…。でも、それが根っからの親切心からであることは、伝わってきました。ドブロブニクでは、何人の方に助けてもらったことか!“アドリア海の真珠”と謳われ、旧市街地が世界遺産になっているドブロブニクですが、親切なドブロブニクの人々もまた、“無形文化遺産”に指定される価値があるのでは、と思ったほどでした。
(『フルヴァツカをいく!⑨』に続く)