第592回 フルヴァツカをいく!⑦

「雨が本降りになるまえに車に戻っていらして、よかったですね。もうこんなにひどい土砂降りに…!」スプリットへ向けようやく出発した車のなかで、私はわざと何気なくアメリカ人夫婦のご婦人に話しかけました。

古都シベニクを探索中、雲行きがどんどん怪しくなってきたので、私は出発予定時刻より早く車に戻り、アントニオに“旅の指差し会話:クロアチア語編”を見せて発音をレクチャーしてもらいながら彼らを待っていました。

ところが…。アントニオも、何度も街中に探しに出たのですが、なかなかご夫妻は戻ってきませんでした。結局、30分以上も約束の時間を遅れてやっと戻ってきて、出発が遅れてしまいました。戻ってきた彼らから、待っていた私たちへの「ごめんなさい」はなく、車中でのご夫妻はなにやら険悪な雰囲気で、ひと言も言葉を交わしません。「早くしなさい!もうずいぶん時間が過ぎているんだぞ」「そんなこと言っても…まだかかるの。少しぐらい遅れたって大丈夫よ」「だいたい、君はいつもそうなんだ。ガイドに謝らなければいならない僕の身にもなってみろ」「あら、謝らなくっても、いいわ。そんなこと、お願いしません!」車に戻る前に、あるいは二人の間にそんな会話があったのかもしれません。

私の言葉には笑顔で答えてくださった奥さまですが、旦那さまとはお互いにむっつり黙ったまま。アントニオが雨の中、どんどん走行スピードを上げているのも、彼らのご機嫌を損ねているようでした。「アントニオ!何を考えているんだ?こんな雨だというのに。もっとスピードを落として走りなさい」「アントニオ!そりゃね、遅れた私たちがわるかったのは認めるわ。でも、それとこれとは別。危険なのがわからないの?スピードを落としなさい」「私たちはね、ツアーバスで過去に事故にあったことがあるんだよ。一瞬の出来事さ。で、気づいたら病院のベッドの上。そのまま入院生活3ヶ月だ。悪いことは言わない、スピードを落としたまえ!さもなければ、しかるべき手段にでるぞ!」

ご夫妻の苦情はどんどんエスカレートしていきました。彼らの言うことは分らなくはありませんが、そこまで言うのならツアーではなく、プライベートでドライバーと車をチャーターすればよいのです。それに、安全が危ぶまれるほど無謀なスピードでもありませんでした。ロシア人家族は、我関せず、とばかりに無視。彼らは容赦なく苦情を言い続け、車内はすっかりぴりぴりした雰囲気につつまれてしまいました。こんなに戦々恐々としたミニバスツアーは、さすがに初めてでした。なんだか、ご夫妻がお互いの鬱憤をアントニオにぶつけているようにも見え、アントニオが気の毒になりました。

ともあれ、あいかわらずの土砂降りの中、車は無事にスプリットの港に到着。みんな車を降り、私もアントニオにありがとうを告げて車から降りたものの、あまりの雨の激しさに一歩を踏み出す勇気が得られなくて、仕方なくその場で雨宿りをすることにしました。

ほどなく、クラクションが鳴りました。アントニオでした。「君のホテル、どこ?」「旧市街地の、魚市場の近く…」車で送っていくよ。乗って!」私は再び車に乗り込みました。「どうもありがとう。助かるわ」

アントニオは車を発進させながら、やや疲れた様子でぼそっと言いました。「雨の中の走行が危ないなんてこと、分ってるんだ」「そうね。アントニオがそれを“分って”るって、もちろん”分って”たわ。ご夫妻・・・ちょっと文句が多すぎだったわよね」「…うん」「よし!こんな時こそ、カルロバチコ(*アントニオお気に入りのビールの銘柄)の出番!」私がちょっとおどけで言った言葉に、彼は一瞬笑顔になりましたが、やがて真剣な顔になって「ねぇ。君、お腹すいてない?スプリット一うまいサンドイッチ食わせる店を知っているんだけど…行かない?おごるよ」「う~ん、今、そんなにお腹は空いてないの(*注:本当はハラペコだった)」「そうか…(ここでしばらく間があり)。今夜は何か予定あるの?」「え?まだないけど…。なにしろこの雨だし、どうしようかしら」「ホテルの部屋でテレビ、とか?」「残念ながら、そうなってしまうかもね。アントニオは、カルロバチコ!」「…ねぇ。一緒に、飲まない?君ともっと話がしたい。飲みにいこう!」

アントニオは悪い人ではないと思いますが、いくら恋愛経験の少ない私でも、くどき上手と言われるアドリア海の男性のお誘いにホイホイついていくほど無邪気ではありません。だいいち、日本人女性はくどき易い、なんて思われたら大~変、です!心がときめくどころか、最後の方は会話しながら「う~む。これ、ブログのエッセイのネタにしてもいいもの?それとも、不適切?」なんてことばかり、考えていました。私は表情を引き締め、きっぱりと言いました。「飲みたかったら一人でいくから、大丈夫。今日はありがとう。送ってもらって、とても助かりました」「そうか…。残念」彼は私の両頬にキスをして「これはクロアチア語で、○○○○(*注:忘れました)。恋人同士のではなく、単なるあいさつのキスって意味…」と最後のクロアチア語レクチャーをして、肩をすくめました。

その夜は、アパートメントのスタッフオススメのお店其の二…その名も、“マリアン”…で、ムール貝のワイン蒸しをいただきました。塩とオリーブオイルだけのシンプルな味付けでしたが、それがまた地元産の白ワイン“マルヴァジーア”と相性抜群!ほどなく、「お料理のソースはいかがですか?」日本なら、女子の目がハートになってしまうような映画スター級超イケメンウェイターが、尋ねてきました。私は「とても美味しいです!もう、このソースだけでワインを1リットルくらい、飲めてしまいそう!」と、ついお笑い芸人さんのようなコメントをしてしまい、「あ~あ。私ってつくづく、色気ないなぁ~」と、そのあと2分ほど落ち込んだのでした。

それにしても、ウエイターさんといい道行くお嬢さんたちといい、ダルマチア地方にはなんと美男美女の多いこと!ヨーロッパ人に人気のリゾート地、といわれているけれど、きっと彼らの“目の保養地”としての役割も、果たしていることでしょう。

お腹いっぱいになってお店を出るころには、すっかり雨も上がっていました。濡れた石畳に黄金色のランタンの明かりがうつって、とてもロマンティックな風情です。スプリット最後の夜…。なんだか名残惜しくなって、港の夜景をもう一度だけ味わいたくなりました。なにしろこの街では、夜の港を独りでぶらぶら歩きしてもまったく危なくないのです。クロアチア政府観光局は自国の治安のよさをうたっていますが、確かにそうだな、という印象をもちました。

明日はいよいよドブロブニクです。かの地で出会うことになるアントニオをしのぐ“濃い”人物や、スプリットに勝るとも劣らない絶景のことを知るすべもなく、この夜はあっという間に、ぐっすりと寝入ってしまいました。

(『フルヴァツカをいく!⑧』に続く)

2012年12月07日

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