第590回 フルヴァツカをいく! ⑤
プリトヴィツェからの充分すぎるバス移動のあいだ、スプリットの街の地図はすっかり頭にいれることができました。長距離バスターミナルに降り立ったころにはすっかり空が暗くなっていて、スプリットの夜景に圧倒されました。アドリア海に面したプロムナードと呼ばれた通りにはたくさんの人であふれていて、ヨーロッパのリゾートらしさむんむん、想像や写真でははかり知ることのできない美しさです。全然景色は違うけど、初めてブダペストでドナウ河の夜景に出会ったときの涙が出るほどの感激を、思い出しました。
これから3連泊するのは、ホテルとは違う、アパートメントという種類の宿泊施設です。キッチンや家具がひととおり付いていて便利なのですが、鍵をうけとるオフィスは別の建物にあることが多いので注意が必要です。でも、そこのオーナーから事前にとても丁寧な案内を頂いていたので、まるでここに3年ほど住んでいる人のように、地図もみないで迷わずにオフィスにたどり着くことができました。
フレンドリーなスタッフに部屋を案内されて、びっくり!私が日本ですんでいるマンションと同じくらいの広さがあるのです。猫足のついた大きなクローゼットをはじめ、三つのベッド、キャンドルホルダーなどステキな家具や小物。広々としたリビングには最新の大型液晶デジタルテレビとDVDプレーヤー、オーディオ一式にソファー。二つもある冷蔵庫、お鍋や食器、カトラリーはもちろん、コーヒーマシーンまでそろっているキッチン…。何より驚いたのはどの部屋もとても“傾いている”ことでした。ボールを転がせば間違いなく軽快に転がるでしょうし、不安定なコップなら置く角度によっては倒れてしまうかも、というレベルです。そんな“日本ではありえない”ものに触れるのは、私にとってこの上ない旅の楽しみです。
スタッフが教えてくれた、アドリア海の海の幸を食べさせるオススメのニ軒のレストランのうち、今夜はどちらにいこうかしら、とお店の前で迷っていたら「こんばんは。フランスから来たのかい?」ひとの良さそうな初老の紳士に声をかけられました。むむ?この街でも間違えられるとは…。いったいなぜなんだろう?
レストランでは地元の白ワインと天然の黒鯛のアクアパッツァを堪能することにしたのですが、ウエイターの身のこなしや接客には、明らかにザグレブとは違うものを感じました。陽気でおしゃべりで、港町らしいラフさがあります。テーブルは私で満席になりました(というか、大きめのテーブルでイタリア人夫妻と同席させてもらったのでした)。地元の方たち、海外からの旅行者…。あまり広くない店内にクロアチア語とイタリア語、ロシア語、ドイツ語、英語が入り混じり、ウエイターはテーブルによって、さまざまな言語を鮮やかに使い分けていました。
ご夫婦でディナーを優雅に楽しんでいた、同席のセンスのよい若いご夫妻。テーブルでの会計のときに奥様がレシートの内容をじっくりとあらためて「これ、なんのお代かしら?お願いした覚えがないわ」と、ウエイターにはっきり尋ねていたのが印象的でした。こういうことがちっとも失礼にならないのが、ヨーロッパ。言うべきことをきちんと相手に伝えるのは、むしろ大切なことなのです。
翌日はのんびり起き、Wi-Fiがつながるので日本の友人とやりとりをしたりしたあと、のんびりとアパートメントを出ました。すぐ近くにある、売り子たちの威勢のよい掛け声でにぎわう魚市場をひやかし、旧市街に向かいます。3世紀末のローマ皇帝が建てたディオクレティアヌスの宮殿がそのまま旧市街となっていて、世界遺産に登録されている風光明媚なスプリット。宮殿の前庭では、クロアチア名物?になりつつある数人の男性グループによるアカペラ合唱“クラッパ”の演奏に出会うことができました。城壁に声が響きわたり、その特別な音響効果でハーモニーがとても美しく聞こえます。
かるい昼食のあと街中のビュッフェスタンドで、ハンガリーで大好きだった“プンチュ・ゴヨー”というユニークな名前の、ココナッツファインのまぶしてある大振りなお団子のようなお菓子と酷似したものを見つけました。もちろん、買いました!このあとの街歩きでここぞ、という場所に出会ったら、そこでこの子をいただこう…。
海沿いには立派なフェニックスが誇らしげに並木をなし、風に揺られるキョウチクトウがところどころに色を添えて…なんとエキゾチックでロマンチックなところでしょう。「はぁ。ここは独り向きじゃないわ。こういうところは、やっぱり恋人と来たいものよね…」ボソッとつぶやいて、私の足は旧市街地を離れて住宅地へと向かいました。宿の近くにして海沿いの、感じのいい見知らぬ坂道をなんとはなしに登っていきます。こんなに急な坂道を歩くのは、鎌倉かポルトガルのリスボン以来かも、などと思いながら、ひたすら上へ、上へ…。
それにしても、なんという暑さ!プリトヴィツェでは吐く息が真っ白だったというのに、Tシャツ一枚で汗が吹き出てきます。途中で足を止め、ミネラルウォーターをぐびっとひと口飲んだら、ふと、目の前に佇んでいる初老の(またも!)ご婦人と目が合いました。「マリアンは、この先よ。まだまだ坂を上らないといけないけどね。ああ、あなたがマリアンに行こうとなさっているのかどうか、わからないけど…」と、クロアチア語で言って、はにかみながら微笑みました。マリアン…。ハンガリーで出会ったマーリアの名前がかさなりました。マリアンってなんだろう?ガイドブックにはそれらしきものは載っていませんでした。よし、そのマリアンとやらに行ってみようではないの!「どうもありがとう」リュックにミネラルウォーターをしまい、私は再び坂を登りはじめました。
(*フルヴァツカをいく! ⑥に続く)