第586回 フルヴァツカをいく! ①
「どうしてクロアチアに?」今回、かの国へのひとり旅を決行するにあたり、何人に尋ねられたことでしょう。いいえ、旅のあいだにも、現地で幾度となく聞かれたのです。「君はどうしてこの国に来ることにしたの?」
クロアチアの歴史はとても複雑です。ウィキペディアの説明をまとめると…。
ハンガリー・オーストリア帝国時代、一部の国土はハンガリーがクロアチアに対して認めていた自治権も併せて、実態的に“オーストリア=ハンガリー=クロアチア三重帝国”であったとする研究もあるそうです。確かに、北部の町にはハンガリーとの共通点が多く、旅の途中で何度もハンガリーを懐かしく思い出すことになったのでした。
かと思うと、天然の良港の宝庫、南部ダルマチア地方は10世紀末に海洋国家ヴェネツィア共和国の植民地になっています。以降1815年のウィーン会議においてオーストリア帝国直轄領になるまでの長きにわたって、ヴェネツィアの支配が続いたとのことです。
1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フェルディナント大公夫妻が、サラエヴォ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、セルビア人の青年プリンツィプによって暗殺され、第一次世界大戦勃発のきっかけとなった、いわゆる“サラエボ事件”の舞台も、旧ユーゴスラヴィアです。
1929年には国名をユーゴスラビアに改名したものの、クロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく、1939年にはこの不満を解消する目的で広大なクロアチア自治州を設定するも、1941年反独クーデターによる親英政府打倒の為ユーゴスラビアに侵攻したナチス・ドイツの支援を背景として、クロアチア、ダルマチア、スラヴォニアとヴォイヴォディナ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部に跨るクロアチア独立国を成立させてからは、セルビア人勢力のチェトニックとの間で凄惨な戦闘が繰り返されました。その後、1991年の独立、そしてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争への介入については、記憶に新しいところです。
いうまでもなくクロアチアは、その1991年の激動までユーゴスラヴィアという国名でした。留学時代に、私はふたりのユーゴスラヴィア人との接触がありました。
ひとりは、アメリカ合衆国のシンシナティ音楽院の警備員、トムです。お年は60歳くらいに見えました。背が低くずんぐりとした体型の方で、いつも笑顔で学生たちにスラブ訛りの英語で声をかけ、学生たちも彼が好きでした。皆が親しみをこめてトム、と呼ぶので私ももっぱらそう呼んでいましたので、ファミリーネームを思い出せません。
トムには右腕がありませんでした。学生たちの間には、その1941年に起きたクーデターでの戦いで右腕を落としたという噂もありました。「祖国のユーゴスラヴィアは、それはそれは美しい国なんだよ!」トムはよく話していました。私は、自分はハンガリーにいたんです、と話すと「そりゃ、ずいぶん近くにいたんだね!」と、さらに顔をクシャッとさせて笑ってくれました。
もうひとりは、ハンガリーでであったマーリアでした。彼女は同じくピアノ科の学生でしたが、バルトークをあまり得意ではなさそうに弾くのでした。ユーゴスラヴィア人なのにハンガリー語を話すので不思議に思い、「どうしてハンガリー語が話せるの?」と尋ねると「ユーゴスラヴィアだけど、私の実家のあるところはハンガリー語が公用語なのよ。小学校でも、お家でも、ハンガリー語なの」「え~?なんで?」
オーストリア・ハンガリー帝国の二重国家時代のことなどの歴史的な事情にはまったく精通していなかった私は、恥ずかしいことにその理由がわかりませんでした。「う~ん…。ま、私の住んでいるユーゴスラヴィアのハンガリー側には、フクザツなことがいろいろあるのよ」「そうなんだ。ヨーロッパには日本と違って、国境が大きく変わったり、国名前が変わったりしている国も珍しくないものね。ユーゴスラヴィアの、なんという町なの?」「パンチェボっていうの。“それ、どこ?”って感じの名前でしょう?」マーリアは肩をちいさくすくめて笑いました。
マーリアがそんな会話の後に続けたのは、意外な話題でした。「それより、ねぇ、安部公房って日本ではかなり有名な作家なんでしょう?」「え?安部公房?」たまたま、大学時代に彼の芥川賞受賞作品『壁』を読んでいたので知ってはいましたが、まさかその名前をハンガリーで聞くなんて…。「どうして知っているの?」「高校の教科書に、出てたの。すごい人なのですってね。のちにノーベル賞を受賞したブルガリア人の作家に早くから注目していたり、バルトークにも造詣が深かった人って習ったわ」「へぇ!私、そんなこと知らなかった!」「三島も好き。三島由紀夫」「すごいなぁ。私なんて、ユーゴスラヴィアの作家を誰一人知らないわ…」「いいのよ。日本はすごい国だもの。ユーゴスラヴィアには、すごい作家は日本みたいにたくさんいないの」
マーリアとは、日本に帰ってからもしばらくクリスマスカードをやり取りしていたのですが、いつのまにか途絶えてしまいました。
1993年頃、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、コソボのアルバニア系住民を保護するためだという名目でNATO軍が大規模な空爆を行いました。コソボだけでなく、難民を受け入れていたモンテネグロまでも…。
当時の私は、パンチェボにバルカン半島最大の化学コンビナートがあったことも、それが一連の空爆(NATO軍は“誤爆”と説明)によって破壊され、大量の水銀や発ガン性のある化学物質が流れ出し、町には10日以上も『黒い雨』が降り続けて、ある研究者に“世界最大規模の環境破壊”とまで言われた大惨事になったことも、まったく知りませんでした。マーリアはたぶんその頃から、パンチェボからどこかに移り住んでいたのかもしれません。
「どうしてクロアチアに?」…その問いを受けるたび、ふたりの面影が思い浮ぶのでした。そして、どう答えたものか困ったあげく、こう言うことしかできませんでした。「前から気になっていた国だったから…」
(フルヴァツカをいく!② に続く)