第577回 もう幾つねると里帰り
「久しぶりに両親や旧友に会うのはよしとしても、実家に帰ってもすることないんだよね~」という独身男性の声を、ちらほら聞きます。子どもがいるならばまだしも、家にいても特にすることもないし、下手すると親に「まだいい人できないの?」「いつになったら彼女を連れてくるの?」なんて問い詰められてしまったりして、身の置き場がなくなる、というのです。「友達と会っても、子どもの話とか体の不調の話ばっかりになりがちだし。…なんだか、トシを実感して落ち込んじゃうんだよね」
その状況を想像すると、確かに痛々しい…。何が痛々しいって、そう感じてしまう彼も、彼を心配するご両親も、彼の友人たちも、誰も悪くないことが、です。誰も悪くないし誰にも悪気なんてないのに、何故か暗澹たる空気がそこに流れてしまう、ということほど、悲劇的なことはありません。解決を見いだしにくいからです。
ところで、私にとっては帰省はお楽しみの宝庫です。特に夏の里帰りは、毎年心待ちにしています。仙台の夏はこちらよりのずっと過ごしやすいし、中でも実家のある太白区茂庭台という場所は標高が少々高いため、街中よりも確実に気温が低くてちょっとした高原気分。毎日の食卓には父の作った新鮮かつ安全な美味しい野菜が並びますし、お互いにおしゃべり好きな母娘のあいだでは会話が尽きなくて、夜更けまで話込んでしまうことも珍しくありません。
そして何より、高校時代からの旧友たちとの再会、という最高に贅沢な宴が用意されることが多いのです。
転勤族だった私は幼稚園から転校(転園?)を重ね、入ったときと同じ学校を卒業できたのは高等学校が初めてでした。その、高校時代からの友達との交流は途中、途絶えたりもしながら今でも密に続いていて、定期的に会い、近況を話し合い、辛かった震災時や今も続くその余波についてなど、さまざまなことをわかち合っています。
「美奈子ちゃん、仙台に帰ってくるときには必ず知らせてね。美奈子ちゃんが帰ってくる、っていうのが皆で会う一番の口実になるんだから!」「美奈子ちゃんの話を聞くと、すごく刺激をもらえるの。これからまた頑張ろう!って、心から励まされるんだよ」こんなふうに言ってくれる友人がいる幸せに支えられながら、日々を生きている気がしています。
実家の近く、あるいは実家に住んでいるので、“里帰り”自体、したことがない、いいなぁ、と、羨ましがってくれる友人もいますが、特定の故郷の有無にかかわらず会いたい人、行きたい場所があれば、そこにゆったりと身を置くことは立派な“心の里帰り”だと思います。
例えば、私の場合でお話しますと、故郷とは違いますが第二のふるさとだと思っているハンガリーに頻繁に行くことはなかなかままならないことです。でも、自己流のハンガリー料理を作って食べたり、ハンガリーの国民的大作曲家バルトークの曲を弾いたりすると、瞬間的に、心が彼の地にワープします。そうやって、実際にはいけなくても、心のなかの思い出の場所には目をつぶれば一瞬でいくことができますし(一瞬しか行けませんが…!)、同じように、実際に会えない人に会うこともできます。
先日は、大好きだった祖母の命日でした。郡山での仕事でバタバタしてしまった一日でしたが、新幹線の中で、東京駅のホームに迎えにきてくれた祖母の姿を思い浮かべました。妹とふたりで、名古屋から新幹線に乗り込んで東京駅に向かった私たちを、祖母はいつも「久しぶりに、おちびちゃんたちに会える!」という楽しみと、「ちゃんと、この○号車乗っているかしら。ちゃんと会えるかしら…」という不安の入り混じった、なんともいえない美しい輝きに満ちた表情で待っていてくれました。
その顔は、今でも目をつぶるとすぐに、思い出すことができます。今でも祖母は私の中で生きていてくれていて、いつでも、会いたければ会いにいけるのです。
それだけでもありがたいことなのに、私の仙台への里帰りは一瞬のバーチャルの世界ではなく、何日かにわたるリアルな時間です。こんなステキなお楽しみは、人生のなかでそうそうあるものではありません。
里帰りは、自分を育ててくれた土地に、自分と関わってくれた人たちに会いに行く、素晴らしい機会。手持ち無沙汰になることもあるかもしれませんが、そんな時には普段とは違うゆるりとした時間を全力で楽しむことに、チャンネルをあわせたいものです。
来週、郡山といわきでのピアノコンクール審査のお仕事の合い間に、帰省できることになりました。もちろん、通称“お花畑”といわれる我が宮城県第二女子高等学校(*旧名)の乙女たちとの至福の宴、“華の会”も予定されています。
かけがえのない故郷の人々とその空気に触れて、すっかりリフレッシュして戻ってまいります!
(*来週のエッセイ更新は、帰省中のためお休みいたします。次回更新は8月3日の予定です、どうぞよろしくお願いいたします)