第576回 慌てるのは悪魔のしわざ
夏休みも近づき、ピアノコンクールの審査のお仕事が続きます。そもそも、渾身の演奏に点数をつけるのはとても心が痛むことですが、せめて少しでも今後のお稽古の参考になるよう、そして励みにしてくださるよう、祈るような気持ちで講評用紙一枚一枚に手書きでコメントを書いてます。限られた時間内にできるだけを書きつけるような感じになってしまうので、乱筆乱文になりがちなのは否めませんが。
集計と評議とで入賞者が決まると、やれやれとホッとするのですが、たまにそこでさらなる重荷(!)がのしかかってくるときがあるのです。それは、表彰式における“審査員を代表しての講評”という大役です。
講評用紙へのコメントは、もちろん演奏者に対してのものですから、ある意味で明確です。でも、表彰式でお話しする講評になると、演奏者だけでなくご指導なさった先生方、ひいては会場にいらっしゃるご家族の皆さまへのメッセージということにもなるので、あれこれと気を遣わざるを得なくなります。しかも、短すぎても長すぎてもいけません。リサイタルではトークを入れなれているとはいえ、こちらはなかなか要領を得ず、どうも苦手です。
話し始めこそかしこまるのですが、結局、普段のレッスン時やマスタークラス(公開レッスン)の時と同じような語り口になってしまいます。
いろいろな場面でよく、話している気がするのは「それを知っているのと、それが出来ているかどうかは、別」ということ。例えば、楽譜にアクセントをつけなさい、という指示が書いてあるとしましょう。生徒さんはアクセントとは何か理解しているし、それがそこに書いてあるのも知っている、とします。ところが、かといって、実際にそこに気持ちを向けて、ふさわしいアクセントを考えたり工夫して、それがきちんと外部に向けて表現されているのか、というと、そうとは限りません。案外、「知ってる」「わかってる」の瞬間に、完結してしまいがちなのです。
「○○ちゃんが、“その音にはアクセントがついてる”と認識していること、先生は知っているよ。もちろん、アクセントがなにであるかも、分っているよね?でも、ちゃんとそれが伝わってたかな?どんなアクセントにしたい、って、考えてたかな?」弾き手が、何を考え、どう伝えようとしていたのか、あるいは何も考えないでただ漫然と弾いてしまっているのか、は、面白いほど伝わるものです。
「音楽の世界ではね、知っているだけでは意味がないの。それが演奏に反映され、生かされて初めて、意味を持つのよ。でも、それはたぶん、他にも共通することよね。教養だって、持っているだけでは意味がない。それがその人の行動によい方向で生かされたり、なんらかのかたちで社会の役に立ったりして初めて意味をもつのではないかしら。だから、先生は“知っている”には落とし穴がある!と、思うようにしているのよ」
「自分が弾きたいように、弾いてる?そう弾きたかったからあえて、その左手のバスをポカンと無表情な感じに弾いたの?でもこれ、特別なバス進行だよね。ほら、お客さまになって聴いてみて(*○○ちゃんを立たせ、私がピアノの前に座る)。さっきの○○ちゃんのように、特に何も感じてないふうに弾くのと(*実際に真似て弾いてみる)、こんなふうにその特別さを感じて弾いてみるのと(*ニ通り弾いてみる)、どっちが面白いと思った?どっちの弾き方も選べるとしたら、どっちの弾き方がしたい?」
「これもまた、人生とかぶると思わない?“あなたはそんなふうに、人生を歩んでいきたいのですね?”と聞かれたときに“そうですよ”って、胸をはれる生き方ができたら、すばらしいよね?それに対して“あなたはそんなふうに人生を歩んでいきたいのですね?”と聞かれて“いいえ!全然ちがいます!”って答えるのって、どう思う?“あなたはそんなふうに弾きたかったのですね”と聞かれたら“そうですよ”と、答えられるように弾けたらステキだと思うし、それがとても大切なことなの」
「う~ん、“できない”って、思うの?でも、それは思い違いじゃないかな。だってたまたま今は、できない、っていうだけでしょ?あと三日練習したらできるかもしれないし、今のテンポじゃなく、もっと遅く弾いたら、今すぐにだってできることだよね?慌てて結論をださないようにしない?“慌てるのは、悪魔のしわざ”ってことわざ、知っている?悪魔の誘いにのらないように、ね!」
生徒さんに話しながら、自分自身に言い聞かせています。話すことで、気持ちや方向性がクリアになることも、少なくありません。まさに、生徒さんを教えている、というよりも、教わっている、という感じで、何年経ってもそれは変わることがありません。
とはいっても、コンクールの表彰式での講評を話すのは、やはり苦手です。先日は鶴岡で審査があり、その講評を仰せつかりました。7月はあと、酒田、郡山、いわきでの審査のお仕事が控えています。ああ、どうか講評のお役がまわってきませんように…。