第574回 “音を数える美奈子”とな?
「最近、子どもの名前で、とても読めないものが本当に多くなったわよね」「“子”のつく女の子の名前、ほとんどありませんね」ジュニアピアノコンクールの審査員控え室で、参加者の名簿を前にしばしば交わされる会話です。
個人的にひときわ目を奪われるのは、“音”という字の入った名前です。音弥、音次郎、和音、音葉、香音、美音…。調(しらべ)という字の入った名前も、ちらほらみられます。きっと親御さんが音楽好きで、「この子には楽器を習わせよう」と、産まれたときから…いいえ、産まれる前から、楽しみにしいらしたのかもしれないな、と、想像しては、微笑ましく、ちょっぴりうらやましい気持ちになります。読み方にひとひねりある名前にも、なにやら文学的でインテリな雰囲気を感じます。
それにひきかえ、鈴木美奈子…私の名前ときたら!あまりに誰にでも読みやすく、同姓同名が恐ろしく多いのです。デパートの化粧品のカウンターで名前を伝えると「あの~、当店のお客さまに鈴木美奈子さまが複数いらっしゃるのですが、ご住所はどちらでしょうか?」と返されることも少なくありませんし、クレジットカードで買い物をしてサインをした直後、店員さんに「えっ!?お客さま、私の名前とまったく同じです、漢字まで一緒!」と、驚かれたことも。
以前、このエッセイでも話したように、美奈子という名前そのものは嫌いではありません。でも、ピアニストという、世間一般的にはあまり“一般的”ではない職業についているけど、名前のインパクトはごく平凡…という印象も否めません。まぁ、どうすることもできないことなので、そこまで真剣に考えているわけでもないのですが。
…と、友人に話したら「美奈子ちゃん、なに言ってるの?あきらめちゃだめよ、いい方法があるじゃない!」と、声をはずませるではありませんか。「え?いい方法って、なになに?」「ゲイジュツカっぽい苗字の人と、結婚すればいいのよ~!綾小路、とか、堀乃内、とか…」やれやれ。それって、何よりも不可能に近いことだと思うんだけど…。
ところで、インパクトのある名前(苗字ではなく)って例えば、どんなだろう?ひと目見て「わー、アーティストっぽい!」「ピアニストっぽい!」なんて名前があるとしたら…?
苗字は鈴木なので、その時点でかなりハンデがありそうです。かといって、あまりに素晴らしい名前でも名前負けしてしまいそう。そうだ!一見して男性か女性かわからない、ちょっと男性的な名前はどうでしょう。以前、“夏生”という名前を聞いててっきり男性かと思っていた方が女性で、ちょっとかっこいいや、と思ったこともあったっけ。
でも。考えてみたら私には、高校時代から“はるお”という男性名のニックネームがあって、未だに当時からの一部の友人は何のためらいもなく私を「はるおー!」と呼んでいます。まさに、女なのに男性名です。でもなぁ。鈴木はるお。う~ん、なんだか和んじゃう感じで、ゲイジュツカ的緊張感に欠くような気が…。今ひとつ、というより、哀しいほどピンときません。
やっぱり、“音”という字が入る名前には、どこか憧れを感じます。はかない憧れですが。
話はかわりますが、ある日、日本橋で銀座線に乗ろうと、地下鉄のホームにいた時のことです。すぐ近くに立っていたスーツを着たひとりの女性が、突然あからさまに激しく表情を歪め、その後強ばった表情のままおろおろと周囲を見渡しはじめました。「あの~」やがて彼女は私におずおずと話しかけました。「はい?」「あの、さっきそこのレールのところでネズミみたいなものを見たんです。ネズミって、いるんですか?」「ああ。ネズミならよく見ますよ~。ほら、ああいうレールと土台の間に入り込んでいたり、時々親子らしき姿も…」
話している間、その女性は気の毒なことに、恐怖の表情を固定させたまま私の顔を見つめていました。私はハッとしました。「いけない、悪いこと言ってしまったのかな…。ネズミなんていませんよ、見えたなんて気のせいですよ、と言って、安心させてあげたほうがよかったのかしら…」と考え直すも、もう手遅れです。第一、陽も当たらなければ空気も悪いこんな都会の地下で、懸命に生命を全うしようとしているネズミの存在を無視してしまうのも、如何なものか。う~ん、う~ん…。
音数美。
例えば、ネズミが“鼠”ではなくこんな文字だったら、少しはイメージアップするかしら。…おや?音っていう字が入ってる。おまけに、“音を数える美奈子”の略と、受け取れなくもありません。鈴木音数美(すずきねずみ)。…う~ん、見た目のインパクトはそこそこあるけど、音的にベートーヴェンを弾くイメージは感じられないなぁ。
ボツだなぁ。