第569回 「みみをすます」という生きかた

今回は、昨日受講した町田さんの『みみをすます』(*当ブログでも紹介済み)の講座があまりにもステキだったので、その時の資料の一部を、ご紹介したいと思います。

町田さんはもう20年以上も前からの、大切な友人です。私が言うまでもなく、わが国が誇る素晴らしい作曲家ですが、ピアノの演奏がまた秀逸!彼のように「自分の作品を弾くがごとく」ピアノが弾けたらどんなにか楽しいだろう、と、その演奏に触れるたび、夢を与えてもらうのです。私のCD製作にあたってはディレクターを快くお引き受けくださって、選曲に始まってすべてのレコーディング、編集にも関わっていただいたうえ、ライナーノートまで執筆してくださいました。

『みみをすます』は、彼の、音楽への、そして子どもたちへの愛情に溢れた、かつてない画期的な音楽教材で、第一巻が発行された折には町田さん自身が楽譜を進呈してくださって(しかも、オリジナルの可愛らしいピアノ曲を添えて…)とても感激したのでした。

その講座も期待にたがわぬ素晴らしい内容で、様々な示唆にみち、生徒さんとのかかわりだけでなく人間としてのあり方についても、見直すヒントをたくさんもらったような気がしています。

以下、資料からの抜粋です。

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【導入期に必要なこと】

教師は想定外を肯定し、情緒的働きかけを排除すること。
子どもが自覚を持って「『なに』かを『どう』にかする」ことに没頭できる環境を作ること。
「鳴った音」のありようが教師の望むものであるか否かを「評価」の基準とすることは、無意味かつ有害。

【何をもって「音楽」とよぶか】

過去を省み、今を自覚し、未来を想像しつつ自分を営み続ける。漫然とかもしれないけれど、人はまあ、そうやって生きている。音楽とは、これを漫然とではなく、あらゆる瞬間においてできるだけ精密に、克明に、徹底的に行ない続ける、という生き方です。

「みみをすます」という生き方は、音とは関係ないところでも営まれます。一文字を描き切る何秒かを、投手が振りかぶってから打球が処理されるまでの何秒かを、鼻先で漂わせて飲み下すまでの何秒かを、書家も三塁手もソムリエも全身全霊でみみをすませて生き抜く。この営みは、いわば「素」の状態とは別に流れる切り取られた時間の中でなされ、その間すべての出来事は、その時その瞬間におきてこそ意味がある。このような状態にあって音と対峙するとき、はじめてそれは「音楽」とよべる営みになります。

子どもたちにとって、ピアノを弾くことがいつもそうした意味において真に「音楽」であることを私は願っていますが、それはむすかしいか?

「そんなはずはない」が私の答えです。なぜなら「みみをすます」という生き方は、彼らが最も得意とし、いつも本能的に強く欲している生き方、すなわち純粋で一途な「遊び」と同質のものだからです。

「いないいないバア」に目をみはり、紐結びを覚えれば家中の長いものをみんなコブコブに結んでしまい、飛び降りることを覚えれば段差とみるやことごとく全力で飛び降りる。そんなとき、彼らは全身でみみをすませて「今」をむさぼりながら生きている。大切なのは、今それをすること、今その感触を、命の…ingを味わいつくすこと。これと同じ次元にピアノを弾くことを置けばいい。理屈は簡単。一見むずかしそうなのは、音楽に触れることを阻むような要素が、ピアノを弾くという行為の周辺にたくさんこびりついているからです。これをいかにクリアするか?

「みみをすます」は、私がこの宿題を自分に課し、楽しみながら行った試行錯誤の軌跡です。

                                                町田育弥

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2012年05月24日

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