第567回 『クライスレリアーナ』をめぐる想い

20代の頃から、何かを好きになりすぎてしまうとそれに近づくのがこわくなってしまう感覚、感情があります。

シューマンの書いたピアノ曲に、『クライスレリアーナ』という作品も、そのひとつでした。“出会い”は19歳か20歳のころ。ちょうど、ヨハネス・ブラームスが自分よりも14歳年上のシューマンの妻、クララとの運命的な出会いを果たし、一瞬で彼女に心を奪われた年頃でした。

『クライスレリアーナ』はウィキペディアによると、“ロベルト・シューマンが1838年に作曲した、8曲からなるピアノ曲集で、ショパンに献呈された。題名のクライスレリアーナとは、作家でありすぐれた画家でもあり、また音楽家でもあったE.T.A.ホフマンの書いた音楽評論集の題名(1814 - 1815年刊)から引用されている。この作品はそれに霊感を得て作曲された。シューマンはその中に登場する、クライスラーという人物(ホフマンその人)を自分自身、さらに恋人(後の妻)クララの姿にも重ね合わせた”とのこと。私もずっと、そのように理解していました。でも、最近この作品のタイトルのもつ、違う一面について知りました。

クライスラーというのは、極度に興奮しやすい一面をもちながらも安らぎを与えてくれる港を捜し求める、ロマンティックな性格の人物で、確かにシューマンを連想させる部分があります(『クライスレリアーナ』は、いわば“クライスラー的な”)。ところが、彼の妻クララにただならぬ熱い気持ちを寄せていたブラームスもまた、自分自身の中にクライスラーのような性格を見出し、友人への手紙に“ヨハネス・クライスラーニ世”と署名すらしていたというのです。

ここで、シューマンとブラームスの関わりについて簡単に触れておきましょう。シューマンは彼より23歳年下のブラームスにとって、偉大な恩人であり、尊敬する芸術家でした。ブラームスを最初に楽壇に紹介したのは、シューマンでした。シューマンのブラームスへの評価は、彼が楽譜の出版会社へ送ったこのような手紙からも伺えます。“ここに一人の若者が現れ、彼はその驚嘆すべき音楽で私たちにこの上なく深い感銘を与えました。今後彼は、音楽の世界において最も大きな感動を呼び起こすであろうことを、私は確信しております。”

ブラームスはシューマンと彼の妻、子どもたちとほとんど家族同様な付き合いをしていました。一時期、子どもたちと一緒に住んでいたこともあったほどです。彼が美しく才能豊かで、優れたピアニストであったクララへあてた手紙を見ると、当初は「尊敬する奥さまへ」ですが、それが「最も大切な友」「最も愛する友」と変わり、やがて「愛するクララ夫人」、ついには「愛するクララ」と変わっていきます。

「クララ、愛するクララ!待ち望んでいた貴女からの手紙がようやく今日、届きました。貴女への愛を思うと、私はますます喜ばしい気分になって心が安らいできます。貴女のいない寂しさはそのつどいっそう募るのですが、一方で、貴女に恋焦がれていることに喜びを覚えているといってもいいほどです。これほど熱い気持ちになったことは決してありませんでした」

クライスレリアーナについて、話を戻しましょう。この作品は当初クララに捧げるつもりで書かれました。当時、彼らはクララの父親から結婚を猛反対され、かなり苦しい状況にありました。ロベルトはクララに書いています。「この曲の中では、君と、君への想いが主役を演じているのです。これは君に捧げます。他の誰でもなく、君に。」ところがどうした成り行きか、最終的にこの作品はクララではなくかのショパンに捧げられています。その理由は、未だに謎です。

あるいは、ブラームスも自らをクライスラーと重ね合わせていた、ということも知ってのことだったのでしょうか?いずれにしてもロベルトは、彼の死の瞬間までブラームスを心から信頼していました。

ブラームスはというと、心を患って精神病院への入院を強いられていたロベルトなきシューマン家を支え、もちろんクララの心の支えにもなっていました。クララに、自らの作品も献呈しています。でも、ロベルトの死後、クララからは意識的に距離を置くようになりましたし、それに伴って彼女に宛てた手紙の調子も次第に変化していきました。

クライスレリアーナを初めて聴いたときに、電撃的に(?)この作品の魅力にとりつかれ、何度も弾くことを試みながらも、ずっと人前で発表するところにまで理解を掘り下げていく自信が持てずにいました。20歳やそこらでこの曲と“出会った”当時は、こんなにも様々な想いが入り乱れて映しこまれているとは知りませんでしたし、もし知識として分かっていたとしても、それをどのように表現に結びつけたらよいものやら、見当もつかなかったことでしょう。

シューマンがクララたちを残してこの世を去った年齢を過ぎてようやく、この作品をいくらか理解できるかもしれないような気持ちになってきました。そして、次回のリサイタルで思い切ってこの『クライスレリアーナ』を弾くことにしました。激しさ、切なさ、愛しさ、哀しみ、そしてよろこび…。ロベルトの強く深い想いを隅々まで理解できる自信はありませんが、自分なりの気持ちを音に綴れたらと思っています。

ちなみに、メンデルスゾーンの有名な“春の歌”を含む無言歌第5集も、リストの“ラ・カンパネラ”も、クララに捧げられています。クララがどれほど魅力に溢れたピアニストであり、女性だったことか…想像に難くありませんね。

2012年05月11日

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