第565回 ソメイヨシノとハナミズキ
何日か、雨の日が続いています。雨の昼下がりは、ふと子供の頃を思い出します。
ああ、今日は外では遊べないな、とがっかりしたり、学校からの帰り道に水たまりを見つけてはその一つ一つを覗き込み、足をそっといれてみたりしながら歩いて、帰宅にいつもよりもずっと時間がかかってしまったり。ぬかるんだ土の、いつもとは違う踏み心地を味わったり、雨の降り始めのアスファルトの臭いに全神経を傾けてみたり。
水を跳ね上げないように、お友達の家からそろそろと家までつま先立ちで歩いてかえってみたこともありました。そうとう変な子供でした。そうそう、歩きながら、前に傾けた傘から流れ落ちる雨つぶに見とれ、段差でずるりと足を踏み外して転んでしまったこともあったっけ。
雨の日に家の中でいただくあたたかくて甘い飲みものは、格別の味わいでした。例えば、ココアやミルクとお砂糖たっぷりのインスタントコーヒー。湿度のあるときは牛乳の風味がいつもよりもたくさんするような気がして、晴れの日よりも味わいが増すように感じたものです。肌寒さを感じる気温の時には、なおさらでした。
雨音を聞きながら部屋の中で本を読むのも、大好きでした。こちらも、晴天の日よりも集中できるような気がしました。窓を開けた瞬間にもわっと湿気が入ってくる感じも、木のサッシが湿ったときに匂う独特の香りも、学校から帰って濡れた靴下を脱ぎ、新しいものに履き替えたときの気持ちよさも、それぞれ楽しいものでした。
子供の頃は、雨が降る、というだけで、なんと豊かに感覚の世界を遊び、感性を研ぎ澄ましていたことでしょう。
あの頃からずいぶん時間が経ちましたが、今もその感じは生々しく思い出すことができます。とはいえ、心も体も、良くも悪くもあの時代とは変わっています。記憶力も体力も落ちているし、ちょっとたくさんカロリーを摂取してしまえば確実にお肉になってしまいます。
それを衰えと受けとるか、成熟と受け止めるかは一人ひとりの考え方ですし、個人の自由です。でも、私自身はそれを“精神(心)の充実のための、健康(体)の前向きな後退”ととらえています。ファウスト博士じゃないけど、人間が永遠の完璧な健康、知力、精神力を身につけることは、不可能です(彼は結局、悪魔メフィストフェレスとある契約を結んで、それを手に入れてしまうのですが)。体の健康が永遠ではなくても、次第に衰えてこようとも、それは精神の豊かさのための先行投資と考えれば、なんだか許せるような気がしてきますし、何もかもを手中におさめていたい、と、おこがましい(?)ことを願うよりもよっぽど人間らしく、慎ましいことだと思います。
ある有名な女流書道家が、晩年になっていよいよ手に震えがきて、まっすぐな線を描くことすらままならなくなった時に、おっしゃったことが印象的でした。「私も長いこと(書を)書いてきて、この歳になってやっと、こんな、なんだか笑っているような、可愛らしい書がかけるようになりました。面白いことですね。ありがたいことと思っています」
私たち演奏家は、思いのままに弾けなく(書けなく)なる日が来ることを怖れてしまいがちですし、それは書家の先生方も同じだと思っていました。それを、ご自身の現状を素直に受け入れ、感謝すらしながらさらに筆を持ち続ける…。深く、しなやかなその精神力の素晴らしさに、涙が出てきました。そういえば、私もある程度の年を重ねて、ようやく心から何かに対して感謝することができるようになった気がします。
『晴耕雨読』という四文字熟語を聞いたとき、それは世間の煩わしさから離れ、心穏やかに晴れた日は畑を耕し雨の日には家で読書をするという、悠々自適な生活のこと、と学びました。でも、その本意は、晴れても雨が降っても、それぞれにその恵みに感謝し、老いては老いを愉しみながら心豊かに毎日を過ごす、ということなのではないでしょうか。
先ごろ、傘をさしレインブーツを履いて、のんびり近所に買い物にでました。ハナミズキの純白の花が、雨に濡れてその色を濃くした幹や、うっすらと曇った鼠色の空に、いっそう鮮やかさを増し、凛とした表情でくっきりと美しく浮かび上がって見えました。
「わたくし最近知ったのですけれど、ハナミズキって、明治時代に日本がアメリカワシントンD.C.へソメイヨシノの桜を贈ったとき、そのお返しにアメリカから贈られた木なのですってね」来週80歳を迎える生徒さんが、お帰りになる折にふとおっしゃった言葉を、思い出しました。
ソメイヨシノと、ハナミズキ。晴れの日と、雨の日。40代も半ばを過ぎて、それぞれを愛でながら感謝して毎日を大切に過ごすことの幸せを、しみじみと感じられるようになってきました。