第553回 なぜ譜めくりストをつけないのか
図書館で、『落語家はなぜ噺を忘れないのか』というタイトルの本がふと目にとまり、借りて読んでみました。柳家花緑さんの著書です。毎月古典落語の定例会をしている近所のとある場所の会員になって、その面白さにますますはまりつつあるのも、その本が目に飛び込んで気になった要因かもしれません。
何百年も前の噺を、今の時代にお客さまにどんなふうに演じて見せるか…。噺家が元となるネタをアレンジしなすぎてもしすぎても、作品や本来の“笑い”の質を損ねかねない、という古典落語のような伝承文化の世界には、知れば知るほどクラシック音楽にも通じるものがあって、腑に落ちることがたくさんあるのです。まだまだ、これからたくさんのことを勉強できそうで、とても楽しみです。
読み終えて、どうもタイトルに何かひっかるものを感じ、はて、なんだろうと、気になりました。似たようなタイトルがどこかにあったような…?で、ファイルをひっくり返してみたら、11年以上も前のこのエッセイに『なぜ譜めくりストをつけないか』というタイトルがみつかりました。こんな内容でした…。
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リサイタルや協奏曲などでは基本的に暗譜で弾きますが、アンサンブルのときは通常、ピアニストは楽譜を見ます。その時、迷うのが「譜めくりスト(譜をめくってもらう人)をつけようかどうしようか」ということ。
他の楽器の人は「パート譜」を見て弾きますが、ピアニストはアンサンブルのとき、オーケストラの指揮者のように二重奏であろうが五重奏であろうが、すべてのパートが書いてある総譜(スコア)を見て弾きます。つまり、ピアノパートだけではなく、他のパートも見ながら弾かなければならないので、どうしても譜面が必要になってくるのです。
私の場合、過去にいろいろなことがありました。現代曲の初演のコンサートで、自分も楽譜を追いかけるのに必死だったのに譜めくりストの方が“落ちて(今、どこを弾いているのかを見失ってしまうこと)”しまって、すっかり踏めくりのタイミングを逃してしまったのです。かといって、私の両手もフル稼働…とても自分でめくるタイミングなどとれなくてどうすることも出来ず、記憶をたよりにしばしアドリブ状態が続いたこともありました。
譜めくりの方が、めくるときに勢いあまって譜面を床ににばっさり落としてしまったこともありますし、ページをめくる直前に両手ともが高音に跳躍する所があったので「すわっ」と体を右にすばやく移動させようとしたら何かに体を引っ張られてしまい…。なんだろうと思ったら、譜をめくるために立ち上がった譜めくりストさんの足がわたしのドレスの裾をしっかと踏みつけていた、なんていうこともありました。
いずれも避けられなかったアクシデントですし、過ぎてみれば笑い話のようなものですが、何かおこって演奏に集中できなくなったのを第三者のせいにだけはしたくない、という思いから、次第に譜めくりストは極力つけなくなっていきました。
一見「これは自分でめくれない!」と思われる曲も、よ~く考えてみると、ちょっとめくるタイミングをずらしたり、うまく部分的にコピーをとって対応したり、いよいよという時には1ページ分ほどを覚えてしまえば、大抵なんとかなることがわかってきました。それでも八分休符ひとつぶんほどの時間しかない場合もありますが、何事も練習、です。毎日やってみると案外すばやく、しかも雑音も極力出さないようにめくれるようになってくるものです。
そういえば、「ミナコは本当に、楽譜をめくるのがすばやいし、うまいね。コンサートでは絶対、譜めくりストをつけないで自分でめくったほうがいいよ。“ミナコがめくる!”ってのも、ステージのひとつの見所になるもの。」と、私の隠れた才能(?)を見抜いたドイツ人がいました。留学時代にリサイタルの伴奏を頼まれた、ヴィオラ奏者のテレサ…。背が高くてボーイッシュな、ほれぼれするほどっかっこいい美人だったっけ。彼女、どうしているかしら…。
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11年前にはアンサンブルのお仕事が多かったので、こんなことを書いたのでしょう。今はすっかりソロのステージの方が多くなって、「譜めくりストをつけるべきかつけないべきか」なんて悩む余地なく、問答無用で暗譜です。今も、リサイタル“ソナタに恋して”に向けて、絶賛格闘中です!