第544回 「ソナタに恋して」にいたるまで 其の三
ホールの予約は、その経営母体の定めた規約などによってもいろいろと異なりますが、たいていは一年前から、早いところでは二年前から解禁になります。
毎年11月から12月にかけて、リサイタルシリーズ“SYMPOSION”をこれまで五回、行ってきたのですが、気づけばもう4月も半ば過ぎ。ずいぶん出遅れてしまっていました。いつもの会場ムジカーザさんに問い合わせると、すでに年内はほとんど予約が埋まっているとのこと。震災で多くのイベントやコンサートが自粛ムードになっている被災地とは、随分状況がちがうものだと実感しました。他の会場も考えましたが、ばたばたするのもいやだな、という気持ちもありました。
ここは慌てないでじっくりと構想を練って、余裕を持って準備したい…。今年は充電の年にすることにして見送って、年明けに行なうことにしました。それでもすでに、昼、夜の二区分で空いている日は平日のわずかしかありません。「2月は7日、14日…」そこで、ハッとひらめいたのです。「ソナタに恋して」に、バレンタインデーがふさわしいのではないか、と。
かくして、東京でのリサイタルは2月14日に決まりました。仙台の会場も、その約一週間前におさえることが出来ました。はじめからから災害復興支援にするつもりでした。
“SYMPOSION(シンポシオン)”とは、古代ギリシャ語で“シン=共に”“ポシス=(お酒を)飲み交わす”という意味なのだそうです。転じて、私の提供する音楽を媒体に、お客さまも演奏者も、ひいては作曲家も、同じテーブルで意識の“交流”を喚起し、なんらかの“共感”を得られるようなものになりますように、という思いをこめてネーミングしました。
でも、今回はそれよりも彼らが大切な人に送った宝物のような作品の魅力や、作品に込められている強い想いやメッセージを、私がなるべく透明になってお客様に“お伝え”したい。私がメッセンジャーになって、作曲家からの贈り物を、お客さまに届けたい、という気持ちでした。人と人とがそうやって、時空を越えてなお、つながっていられることを、感じていただきたい…。タイトルはいつもの“SYMPOSION”ではなく、シンプルに“鈴木美奈子ピアノリサイタル”にしたいなと思いました。
ところで、ありがたいことに、私には自宅以外にくつろげる場所が何箇所かあります。公園以外は、店長さんやスタッフの方たちがとても気持ちのよい接客をしてくださるお店なのですが、彼らに共通していることは「聞き上手」だということ。日頃のとるにたらないような愚痴から人生の大きな指標(?)に至るまで、何でも気兼ねなく話すことができる人がいることで、どんなに救われていることでしょう。おかげで私はストレス知らずです。
カフェふくろうも、そんな大切な場所のひとつです。音楽好きのマスターとは、コーヒー談義だけでなく、音楽の話で夢中になって、つい時間が経つのも忘れて元気をチャージさせてもらうことが少なくありません。例えば、「美奈子さんにとって、いい音楽、よくない音楽って、どういう基準なの?」「上手い下手…って、何が決定的な違いだと思います?」「クラシックの世界では、楽譜って絶対的なものなんですよね?」深いところをついてくるマスターに、ついつい熱く語ってしまうのです。
「演奏家は作曲家と違って、創造する側ではないんです。演奏家にとって楽譜は、作曲家が残してくれた大切な遺産のような、遺言のようなものなんです。それをできるだけ、彼らの意思や遺志を反映するよう解釈して、弾かせてもらうの。だから、偏見や思い込みで意訳しないで、できるかぎり作品そのものをお伝えすることを考えます。報道カメラマンやルポライターのように…。でも、一つの事実も、伝え方で伝わり方って違ってくるでしょう?そこが注意しなきゃいけないところであり、面白いところでもある。自分が立派に“弾ける”ことではなく、音楽そのものを“伝える”ことのほうが、ずっと重要なミッションだと思っているの」
マスターは私があれこれ話すたびに「なるほどね~!」「へぇぇ!」とか「いいねぇ!」とか。あるいは傍らで微笑んでいる奥さまをみながら「面白いね~!」なんて、本当に楽しそうに相槌をうって聞いてくださるのです。
ある日、私の注文したネルドリップのコーヒーを淹れ終わったマスターが切り出しました。「美奈子さん、今度のコンサートの予定は?」私は来年のバレンタインデーに、自主企画でリサイタルを計画していること、バレンタインということもあるし、隠しテーマは“贈り物”で、それぞれの作曲家が大切な方に送ったソナタを弾くこと、そして、私自身もお客さまに何かちいさな贈り物をしたいと考えていることなどを話しました。
「お客さまに、その日のリサイタルについて後でたくさん語り合っていただけるような会にしたいんです。記憶に残るような時間を過ごしていただきくて…。演奏にはベストをつくすけど、それだけじゃなく、例えば、ちょっと評判のいい自作のチョコレートクッキーなんかをお土産としてお渡ししたいな、とか…。あ、そうそう、そのクッキーね、コーヒーを隠し味に使うんですよ!」
「美奈子さん、それ、うちでやりますよ!…うちのエスプレッソで作ってみましょう!いいじゃないですか、美奈子さんとうちのコラボ!」マスターの鮮やかな即答に、奥さまも「さっそく試作してみますから、レシピを教えてくださいます?」
(「ソナタに恋して」にいたるまで 其の四 につづく)