第531回 『音楽と音楽家』
ドイツの作曲家ロベルト・シューマンは、あまり好ましくない作品がもてはやされ、本当にいいものが根付かない傾向にあった当時のドイツ楽壇のあり方を憂い、自らの作曲活動の他に『音楽新報』という冊子の刊行を約10年にわたって行ないました。彼が目標にしていたのは、ただ手をこまねいているのではなく、事態の改善に向けて行動を起こし、「芸術のポエジーの栄誉をもう一度取りもどす」こと。
彼一流の文体で語られる、芸術家とそれを支える人々への示唆や啓蒙にみちた内容は、とても新鮮な“響き”をもって読み手の心に沁み込んできます。その内容が書かれた『音楽と音楽家』(岩波文庫:吉田秀和訳)という本は、この頃のわたしの愛読書になっています。
今回は、その中にでてくるいくつかのシューマンの言葉を、ご紹介したいと思います。
・多くの精神は、まず制限を感じたときに初めて自由に動きだす。
・音楽はちょうど将棋のようなもので、最高の力を持っているのは女王(旋律)だが、勝敗は常に王(和声)によってきまる。
・音楽について話す時、一番いい話し方は黙っていることだ。そこらの批評家が、自分こそ芸術家の救い主だと思って、いい気になっていたらとんでもない物笑いだ。それどころか、芸術家がいなかったらじぶんたちの頤がひあがってしまう癖に!新聞なんか糞食らえ!批評なんぞ、せいぜいよくて未来の音楽のための肥やしにすぎない。しかし、肥やしなどなくても、太陽は充分な実を与えてくださる。(批評家は)なんだって読者を退屈させるんだ!(つべこべいうなら)なぜ自分で創作しないんだ!なぜ自分で弾き、自分で作曲しないんだ!最後にもう一度、新聞なんか糞食らえ!
・(楽器を弾く)指はただ手段であって、隠れていても一向差し支えない。なるほどきくものは耳であるが、決定するものは結局、心である。
・僕らはみな、ベートーヴェンの遺産で暮らしているのではないか。
・(ベートーヴェンの交響曲第8番第二楽章の)変ロ長調のアレグレットを聴いていると、ただもう静かにして幸福になっているより仕方ない。
・(ベートーヴェンの交響曲第5番“運命”について)これについては何も言うまい!何度きいてもあらゆる年齢の人々にいつも変わらぬ力で迫ってくる。ちょうど多くの偉大な自然現象が、何度くりかえされても畏敬と驚嘆の念を起こさせるように。この交響曲もまた世界と音楽があるかぎり、幾百年たってもくりかえしくりかえし演奏されるだろう。
・ショパンの作品は、花のかげに隠された大砲である。
彼のベートーヴェンやショパンに対すて惜しみない賛辞を述べていますが、誰よりも熱意を持ってその素晴らしさをうったえているのは、シューベルトでした。
・シューベルトの三重奏曲をひと目見ると、哀れな人間仲間の営みはたちまち霧のように消え、世界は再び新鮮な輝きをとりもどす。時というものは数限りなくたくさんのものを産むし、なかには時々大変美しいものも生まれるけれども、シューベルトのような男は、当分二度と生まれまい。
・シューベルトは、最も細かい感情や思想から、外部の事件や生活の境遇についてまでも、音を持っていた。人間の念願が幾千という形をとるように、シューベルトの音楽もまたそれと同じくらい多種を極めている。彼の眼に映るもの、彼の手に触れるものはことごとく音楽にかわる。
シューマンの音楽を聴いていると、その中に深い文学性を感じることがありますが、実際に彼は、こんなふうに文章で語ることができる人たっだのです。
のちに結婚相手となり、誰よりも彼と彼の作品の理解者となるピアニスト、クララ・ヴィークに捧げられたピアノソナタ第一番を、勉強しています。「クララ…どうか聴いてくれ!君への思いで、どうしようもなく胸がいっぱいなんだ!」と、ず~っと叫んでいるような作品です。思いの強さで少々形が歪んでしまってもお構いなし(?)な、ところがあって「まとまりに欠く」「不必要な楽句によって、無駄に長すぎている」など、辛口の批評を受けてしまいがちですが、若いシューマンのひたむきさや芸術家特有の熱意に溢れたこの曲は、これまでもしばしば私を誘惑してきました。
シューマンの思いは200年の時を軽々と越えて、ぐいぐいと生々しいほどに強く、心に訴えかけてきます。彼の音楽だけでなく彼の言葉によっても、なお慰められ、励まされているこの頃です。