第526回 美しいもの、万歳!
今年はこれをやろう、と心に決めていたことの半分もできないまま、一年の半分が過ぎようとしています。梅雨のさなかに真夏のような暑さが襲ってくるものだから、ますます時間が早まっているような気がして、気が焦ってしまいそうなこの頃です。
でも、心に決めていたことはできていない反面、予定外の嬉しい出来事にはずいぶん恵まれているように思います。高校時代の旧友との再会や、改めて親交を深める機会が持てたことも、そのひとつです。そのほか、新しい生徒さんとの出会いや、大学時代からの音楽仲間との久しぶりのひとときなどなど、幸せを実感する時間をたくさん過ごせていることには、感謝しています。
近頃、断捨離、という言葉が流行っているそうです。ウィキペディアによると『ヨガの「断業」、「捨行」、「離行」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え。単なる片づけとは一線を引くという。』なのだとか。
モノに囲まれ、モノに不自由しないことが豊かさだ、と刷り込まれた高度成長時代を経て、モノ以外の豊かさを求める風潮が強まってきた、ということなのでしょうか。
でも、モノに執着するのは、人の自然な気持ちです。むしろ、おおいに執着してもいいのではないかと思ったりします。ただ、それが目に見えるモノなのか、見えないモノなのか、それがいったい何なのか、は、人それぞれ違っていていいし、自分で決めていけばいいのだ、ということなのではないでしょうか。
つまり、断捨離、とは、今まではみんなが画一的な豊かさを強迫観念的に(?)求めてしまいがちだったけれど、そういった観念から開放されて自由になりましょう、ということのような気がしています。どんなモノを断ちたいのか、どんなモノに囲まれていたいか。それを今一度、明確にしてみましょう、ということになるでしょうか。う~ん、そんなこと、大人なんだからとっくに分かっていてもいいことですし、それこそ人によって異なることですから、本を読んで学ぶことでもないような気がしてしまいますが。
私の場合、ピアニストとして生きていたいし、そこにはささやかな執着がありますが、万人に認められて広く知名度を持ち、手帳をコンサートの予定で埋め尽くす人生を送りたい、とは望んでいませんでした。夢は、子供のころと同じように音楽、ピアノを愛し続け、そんな私に共鳴してくれる周囲の人たちに恵まれて楽しい時間を積み重ねていくこと(お気楽でわがままなことですが)。今まさに、そんな幸せな状態にあることになります。
話は変わりますが、詩人の谷川俊太郎さんと、私の古くからの友人で染色家の笠原博司さんのお二人による、ことばと織りのコラボレーション『光の歳時記』が、銀座のサロンで開かれています。谷川さんの14編の詩と、その詩にインスピレーションを得て製作された笠原さんの14枚の着物の、それはそれは美しい共演です。
先日、笠原さんご自身にご招待いただいて、そのオープニングレセプションに出かけてきました。笠原さんの着物をまとって登場した谷川さんが自作の詩を朗読して、それに息子さんでジャズピアニストの谷川賢作さんによるピアノ演奏が加わる、という、世にも贅沢で心躍るよう会でした。
音楽(器楽の)は言葉を持たないけれど、音が言葉以上のことばを語ります。一方、詩は音楽は持たないけれど、声に出して詠んだ時に音楽的なリズムや“音”を持ちます。双方のやりとりがとても楽しく、そこに美しく“染め”あげられた糸が精緻に“織り”なす世界がからんで、独特な宇宙感をかもし出していました。ああ、こういうものに触れることができるなんて、なんと贅沢なことだろう、と、心から感じました。
美しさ、楽しさや豊かな時間、というモノにこだわることは、悪いことではないと思います。それどころか、気持ちがいいな、と感じるものにふれることは、自分はいったい何が好きで、どうしていたいのか…自分自身がクリアに見えてくることにつながるのではないでしょうか。
そうやって、気分のいいことをして、気分のいいところに身を置き、感覚を研ぎ澄ましてみると「断捨離」なんて身構えなくても、自分にとって必要なものとそうでないものは、自然に判断できてくるような気がします。
「そうそう、そうなのよ。だから私は、自分の恋人はやっぱりきれいな人がいいな~。だって、その方が一緒にいて絶対気分がいいもの。見た目だけが大切、とは言わないけど、なんだかんだいって見た目だって大切よ。あまり見ていたくなな、って思う人と多くの時間を過ごそうとしても、結局続かないと思わない?」むむ、そうくるか。私はあばたもエクボ、になっちゃうんだけどな。