第522回 恥かくことを、恥じぬべし
ある俳句の先生が、「上達するためには恥をかきなさい」とおっしゃっていました。下手でもおかしくてもいいから、恥をかくことを怖れずにどんどん詠み、発表し、添削や講評を受けて学びなさい、とお話されました。
“恥”、という言葉には、以前から疑問を抱いていました。だって、「耳」に「心」ですよ?音楽家にとって、一番大切な二つのものではありませんか。それがどうして、恥なのか。恥がどうして、耳と心なのか。
調べてみたら、次のような説明を見つけました。【会意。「心」+「耳」、恥ずかしくてそれが耳に出るさま。「耳」は音符、かつ、柔らかいことを象徴し、心がなよなよとすることを表わすとも】。他に、【耳の象形で、はじて耳を赤らめるの意味。心を付し、はじるの意味を表す】という説明も。
やはり耳と関わってはいますが、どうもピンと来ません。
仮に、この説明を“耳が赤くなるような思いをすること”と解釈するとすると、侮りを受けることや面目を失うことだけでなく、好きな人の前でどきどきしたり、ぐっと緊張してテンションが上がることも“恥”に含まれることになります。
少しわかってきました。恥、とは、「耳が赤くなるような状況になり、実際に赤くなってしまった場合に、それを恥ずかしく思う心」のことのようです。つまり恥ずかしいと感じる心が、恥、なのです。
先日、都内のホテルで開かれた高校の同窓会総会のオープニングで、バッハを演奏しました。母校のある宮城の復興を祈っての演奏でしたし、演奏後は会衆全体で一分間の黙祷、という段取りでしたので、心を落ち着かせて弾き始めました。
ところが、会場が静かではありませんでした。いいえ、ご参加の同窓生の皆さんはとても静かに聴いてくださっていたのですが、ピアノのすぐわきでホテルの係りの方が館内電話をかけ、お仲間に業務連絡をしていたのです。その声は、近くにいる私にしか聞こえない程度ではありましたが、私には何を話しているのか演奏しながらもはっきり聞き取れるレベルでした。
気にしない気にしない、と思いながら、気にしないようにと気にしながら、すっかり集中を失って弾いているいる自分にふと気づきました。弾きながら、ぐらり、と、自分の気持ちが揺れる音が聞こえたような気がしました。そして、その次の瞬間、私の左手はあらぬ場所を弾いてしまったのです。いけない、と思ってすぐに立て直しましたが、それしきのことで集中をそがれた自分の不甲斐なさが情けなく、手が震えてしまいました。耳がカアっと赤くなるのを感じました。そのあと、またミスをしてしまいました。
この、特別な会を少しでも良いものにできるよう、復興を祈る気持ち以外は心を無にして、でも心を込めて弾こう、と思っていたのに、なんということでしょう。とてもショックでした。プロのピアニストとして恥ずかしいことをしてしまった、と、情けない気持ちでいっぱいになりました。
ところが、黙祷の後にご挨拶された東京支部長さんは、スピーチの冒頭で声を詰まらせながら「ごめんなさい、ピアノの演奏が耳に残っていて…私がこんなことではいけないのに」と、眼に涙を浮かべておっしゃったのです。とても感激してくださったのでした。支部長さんのお話は、母校、そして故郷宮城のこれからを思い、同窓生として気持ちをひとつにして、復興に向けよき日々を過ごしていきましょう、という強いお気持ちと心からの呼びかけに満ちた、素晴らしいものでした。
その日、出席していた同級生のKちゃんは、後日こんなメールを送ってくれました。「先日はお疲れ様でした。
美奈子ちゃんの想いが会場にいるみんなに伝わる素晴らしい演奏でした。心の深~いところで一つになり、静けさの中にも力強い物が響き渡る、そんな演奏でした。」
私は今度こそ、本当に恥ずかしくなりました。小さなことで集中がそがれて、演奏が乱れてしまった自分に失望して、落ち込んでしまったことを恥じました。
俳句の先生のおっしゃっていたことはきっと、恥かくことを恥かしいと思わずに、恥を怖れず恥から学び、成長していくことが大切だ、ということだったのでしょう。恥は“落ち込む”ためではなく、そこからえいやっと“上がる”ためにかくのです。そういえば、勉強のできる人って、恥を怖れずわからないことをどんどん先生に質問していた気がします。
結論。これからは、あまり怖れたり落ち込んだりしないようになりたい。だって、くよくよして行動が滞ってしまうより、わくわくしながら夢を追いかけているほうが、ずっと楽しいもの。反省すべきところはして、あとはもりもり動ける人になりたい。ピアノの練習も、もっと頑張るぞ!
二女高のみなさん、よい機会を与えてくださって、本当にありがとうございました。これからも、どうぞよろしく!