第519回 故 林秀光先生へ
門下生主催の林先生の喜寿のお祝いパーティーでは、私が幹事を仰せつかることになっていましたので、そろそろ引継ぎの連絡が入る頃だぞ、と、気合を入れていましたところに、先生の訃報が届きました。結局、五年前に古希のお祝いの席で先生にお会いしたのが最後になってしまいました。
告別式には、同期の小澤征爾さんをはじめ、沢山の音楽家の方々がご参列になり、先生のご人望、ご人脈の豊かさを改めて感じたのですが、先生とゆっくりお話できなかったので、今日、少しだけお時間を下さい。
まず、大変お世話になりました。本当にありがとうございました。先生の、音楽への愛情と情熱のこもったレッスンの数々は、一生忘れられません。
毎回、私の演奏を聴いての先生の第一声に、どきどきでした。「うん。いいじゃない。まぁ、もう一回弾いてみなさい」案外、穏やかなお声でこんなふうにおっしゃるので、ホッと油断していると、「あんた!そこは違う!だめだよ!」と、容赦ないコメントが矢継ぎ早に降り注ぎ…。レッスンのおしまいには、もうお手上げだ、といったふうに「やっぱり、難しいね」と、ぼそっとおっしゃる。私は先生のひと言ひと言に一喜一憂しながら、それでも音楽を学ぶ喜びを体中にいっぱい感じて、顔を紅潮させて家路に着いたものです。
先生が日比谷公会堂でベートーヴェンのピアノ協奏曲『皇帝』をお弾きになった折には、先生からオーケストラパートの練習伴奏を仰せつかりましたよね。練習に伺ったら、先生が自らリンゴをむいて出してくださったのが印象的でした。指揮者の方との音あわせにご一緒させていただいた後、美味しいものをご馳走してくださったことも、鮮明に覚えています。ロブスター料理でした。(あら?私ったら、先ほどから食べ物の話ばかり・・・失礼致しました!)
リスト音楽院への留学が決まったときに、先生は「(向うでは)僕から習ったことは忘れなさい」とおっしゃいました。どういう意図でおっしゃったのだろう、と、少し困惑しましたが、『自分の教えに捉われることなく、伸び伸びといいものをたくさん吸収していらっしゃい』という意味かな、と解釈して、そのように努めてまいりました。今から思えば、世界の名立たる名教授、名ピアニストの方々に師事された林先生ならではの、深い示唆に満ちた適切なアドバイスでした。
先生の告別式は、素晴らしかったです。特に喪主の安喜子先生(先生の奥さま)のお話は、感動的でした。
体を顧みずに、桐朋学園名誉教授のほか、国内外のコンクールの審査員やピアノ教育連盟のお仕事を、最後まで意欲的にこなされた先生。それでも、 お忙しい合間を縫っては、時間の許す限りピアノを練習されていたと伺って、耳が痛かった…私はついつい、サボってしまう方なので。
20代でニューヨークでの過酷な練習がたたって腎臓をいため、60代では心臓のバイパス手術を乗り越えて、その後は透析を続けながらも教育活動に情熱を燃やし続けられました。今年になってからは、血液の中に細菌がはいり、肩が激痛で動かなくなる稀な難病に苦しみながらも、最後の最後までピアノに向かっていた林先生を、安喜子先生は「どんなことにも決してくじけず信念を貫いて、諦めずに前を向いて生きた人」と、おっしゃっていました。
また、安喜子先生から、以前あれほど技巧的な曲に傾倒していた林先生が、晩年はバッハを特に熱心に研究するようになって、今年の春には平均律の一巻、二巻、の全曲をすべて暗譜で演奏するという、すさまじい(!)リサイタルの予定があったことを伺いました。
あまりの猛練習ぶりに、安喜子先生が「あのリヒテルですら、晩年は楽譜を見てお弾きになったのだから、あなたも楽譜をご覧になってはどうですか?」とおっしゃったら、先生が「いや。暗譜だよ」と、はっきりとお答えになったとか。ああ、いかにも林先生らしいなと、思わず笑みが浮かびました。
そのリサイタル直前、指の先に血液が行かなくなる病気になられて、そのリサイタルは断念せざるを得なかったのですね。さぞ、お悔しい思いをされたこととお察しいたします。
でも、先生のご遺体にはバッハの平均律の一巻と二巻の楽譜が、ちゃんと添えられていました。先生のことですから、必ずや天国で素晴らしいバッハのリサイタルを(もちろん暗譜で)遂行されることと、信じております。
先生の棺に献花したときのたとえようもなく悲しい気持ちといったら!!…でも、深い悲しみと同じぐらい、林先生に教えていただいたことへの感謝と誇りを胸にこれからも音楽と向き合っていこう、という思いが沸き起こり、なんだか不思議と温かい気持ちになって家に帰ってまいりました。
レッスンで先生に罵倒(?)されながらも、音楽への熱い気持ちを胸に帰宅した、あの頃のことを思い出しました。
林先生、長い間、ご苦労様でした。どうぞ天国で、これからもずっと先生の大好きなピアノを弾きつづけてください。そして、私たちを叱咤激励してください。
いつまでも先生のやっかいな弟子、鈴木美奈子