第518回 詩(うた)なき歌を
十年来…いいえ、もっともっと長いお付き合いの染色家、宮城県加美町にお住まいの笠原博司さんが、今年も国展(正式名称=国画創作協会)に作品を出展されています。
国展といえば、あまり詳しくない私でも版画部の川上澄生や棟方志功、工芸部では柳宗悦や、濱田庄司、バーナード・リーチに芹澤銈介…といった、近代日本美術史における民芸運動の先駆者たちの名前が浮かびます。
笠原さんの作品はどれも大好きです。彼の手によって染められ、紡がれた絣の生地には、日ごろ着物になじみがない私のような者さえも一瞬で魅了されてしまうような、鮮烈で燐とした美しさがあります。伝統的な趣向の中に息づくシンプルでモダンな表情は、ひと目で笠原さんの手によるものとわかる彼ならではのセンス。そこには、見るものすべてに「いつかは、こんなお着物を着てみたい!」と夢みさせてくれる、本物の民芸精神が息づいています。
その初日に会場の国立新美術館に伺い、久しぶりに笠原さんとお会いすることができました。
「6月に、詩人の谷川俊太郎先生との“二人展”をすることになったんですよ」挨拶もそこそこに、さらりとわくわくするような刺激的なことをおっしゃいます。「着物の歴史を紐解くと、日本では1000年前から、着物と詩は濃密な関係があったんです。」確かに、万葉集や古今和歌集といった和歌や、徒然草に歌われた世界感と当時の人たちの着物とが深い結びつきがあったということは、想像するに難しくないことです。
今回の“1000年を経て再会する詩と着物”といったテーマでのコラボレーションの話を谷川さんに持ちかけたところ、「着物と詩とは、元来ともだちだったのですね」と、おっしゃって、快くお引き受けくださったそうです。当日は、谷川俊太郎さんが、笠原さんがその詩をイメージして織り上げた着物をお召しになって、ご自身の詩を朗読なさるそうです。しかも、谷川さんの息子さんでジャズピアニストの谷川賢作さんが、当日の音楽を担当なさるとのこと。考えただけでもどきどきします。楽しく、えもいえぬ豊かな時間になることは間違いありません。
それというのも、永年にわたる谷川さんとの関わりの中で、笠原さんがご自身のレベルの高いお仕事を黙々とこなし、妥協を許さずにそのクオリティを着々とあげてきたことの積み重ねによる賜物です。本当に才能のある方とその仕事が、こんなふうに正当に評価を得ていることは、ジャンルは違えど、私たち音楽家にとっても、とても励まされることです。
「すごい!素晴らしく素敵な試みですね。実は、私も別の角度から音楽と詩の関わりを表現してみたいと考えていたんです。テーマは、“ソナタ”。具体的なタイトルを持つ表題音楽と違って、絶対音楽といわれるソナタというジャンルの音楽には、直接的な言葉を持たずしてそれがしっかりと内包されているんです。その、言葉なき詩を聴き手が自由に感じ、そこに遊べるような楽しみが、案外多く潜んでいると思うんです」
まっすぐな眼差しをむけながら、静かに頷いて聞いてくださる笠原さんを前に、つい興奮気味に熱弁をふるってしまいました。「特に、ハイドン、ベートーヴェンといった古典派のソナタがこの頃、とても面白くて…」「ベートーヴェンは谷川先生も大好きな作曲家なんですよ。中学時代にベートーヴェンを聴いて音楽を知ると同時に、音楽を超えた人間的なはげましを知って『ぼくは生きていかれる』と、感動されたそうです。」あら、そういえば、谷川俊太郎さんの誕生日はベートーヴェンと同じです。
「モーツァルトは小鳥のように歌った。ベートーヴェンは人間として、あくまで人間として歌った。彼の悲しみ、苦しみ、喜びそれらはすべてあまりにも人間的なものだ。彼は初めて音楽を本当の意味で人間的なものにした。彼はむしろ個人的に歌ったと云ってもいい。」谷川さんはある講演会で、こんなふうに語られたそうです。
「わぁ、そうなんですか!棟方志功も大のベートーヴェンファンだったんですって。第九交響曲にインスピレーションを得て“歓喜の柵”という作品も残しているんですよ」笠原さんと谷川さん、ベートーヴェン、そして自分の四者がつながったような気がして嬉しくなって、私はますます興奮してしまったのでした。「ハイドン、ベートーヴェンの音楽って完成された形式を持ちながら、親しみやすさを持っている…アカデミックな理屈に頼らずとも、すっと体に入ってくるものがあると思うんです」「僕は谷川先生のスタンスも、それに近いと思うんです。難しい言葉をつかうことなく、詩に寄り添い、詩に親しむ楽しさを教えてくれるような…」
笠原さんはここ数年、地元の加美町で大人のための『寺子屋』という活動もされていて、各分野のスペシャリストを講師に、贅沢な市民講座を展開されてもいらっしゃいます。それは、会員登録をすれば誰でも破格でその魅力的な講義を受けることができる、という贅沢なもので、近くNHK解説委員で、宮城大学客員教授の園田矢氏の講義も予定されているとのこと。題して『加美町から見る世界の窓』(だったかな?)。
経済のレベルをあげること以上に、その国の文化レベルをあげることは難しいことといわれます。精神的な豊かさは、物質的なそれよりも実感しづらい性質があるからでしょう。でも、心を豊かにしてくれるものの存在が、どんなに人間の生活に重要なことか!少なくとも、それに救われながら生きているからには、その大切さを伝える義務があるように思います。
その使命に向き合い、静かに魂を燃やしながら、着実に一つ一つを積み重ねている笠原さん。「じゃあまた!」と、男同士のように握手をして別れ、帰る道すがら、詩をもたないソナタを奏でて、そこに息づいている無限のメッセージを伝えていく、という、壮大な課題に思いをはせていました。