第496回 日本のこころ
10月になると、一斉に教室の中が“紺色”になりました。高校時代のことです。高校で講師をしていた時も、その時期その日には毎年「おっ!?」と、新鮮な気持ちになりました。同じ空間なはずなのに昨日までとうってかわった様子になって、まるで教室全体がころもがえしたような感じがしたものです。
10月になっても、20度を超える暖かい日が続くことが珍しくないこのごろ、制服の学生さんたちはどうしているのだろう、と思って生徒さんに尋ねてみると、今は“移行期間”とやらがあって、必ずしも10月1日をもって冬服(秋服?)にかえなくてもよいことになっているようです。
この時期になると毎年、ブダペストでのある一日を思い出します。いつものようにリスト音楽院にいく市電に乗り込んだところ、申し合わせたように人々がふかふかした帽子を被り、ウール素材のジャケットかオーバーコートに身を包んでいたのです。
ハンガリーには日本のようにはっきりと四季があるわけではないといわれています。その年も、9月いっぱいは真夏の暑さで、女の人が薄手のタンクトップ“一枚”で(つまり、下着もつけないで!)堂々と街を闊歩しているのを見て、同性ながら戸惑ったりしたものでした。そのあと数週間後の10月のある日に、秋を飛び越えて、突然冬の“ころもがえ”を目の当たりにしたのです。
ちょっと驚きましたが、慣れてしまうととてもらくなことに気づきました。日本のような季節感が無い代わりに、「お彼岸を過ぎたのだから、麦わら帽子やサンダルはおかしい」とか「節分を過ぎたのに、まだ毛皮のマフラーはいかがなものか」のような暗黙の(?)ルールや、ボーダーのようなものがないのです。つまり、着たいものを着たいときに判断すればよく、誰もそれをとがめることは無いわけです。
「この時期、着るものに困りますよね」なんていう会話を投げかけたところ、「あら、どうして?あなたの着たいものをきればいいのよ?」と答えられてしまった、という話を、ドイツ在住の知人から聞きました。
そういえば、ロンドンも季節によっては「一日に四季がある」などといわれています。朝夕はコートやマフラーが要るほど冷え込むのに、日中は半そでのシャツじゃないと暑苦しいほどの陽気になる、というわけです。
日本にもそんな日がないではありませんが、全体に四季の移ろいはゆったりと穏やかな気がします。金木犀が散り始めるとだんだん木々の葉の色が滋味深い色にかわり、やがてそれらが落ち、北風が吹くようになって、ある朝、ついに土に霜が降りているのを見つけ…。ゆったりとしたテンポのなかにも、地に足の着いた確固たる歩みを感じさせる四季の変化は、そのまま本来の日本人の気質にも通ずるものがあるようにも思います。
そうなのです。ころもがえ、豆まき、お彼岸…。その他、数多ある折々の季語に触れるたび、せっかちせっかちと言われがちな日本人ですが、実はじっくりとした時の過ごし方も上手な民族なのではないかと思うのです。美味しい新米を頂くにつけ、我慢強く忍耐強く、協調性に長けた農耕民族のご先祖様たちのイメージが浮かびます。
毎日、楽譜や響きを追いもとめ、前に進んでいるのやら後ろに進んでいるのやら、わからなくなってしまうような気持ちになることもある未熟な私ですが、もうすぐ4?回目の誕生日をむかえます。人生もおり返し地点。これからはなるべくいそいそしないで、おおらかに日々を楽しみ、屈託なく夢を追いかけていたいものです。