第493回 ただ清い泉の水を
「他に例のないほどの警戒心と感受性とをもって、世界の一切の動きを見張り、絶えず変化しながら形づくられてゆく宇宙の声、苦闘し続ける人類の声に、形を与えてゆく人(サボルチ・ベンツェ)」、といわれた、20世紀を代表する作曲家バルトーク。
彼の書いた『ミクロ・コスモス(=小さな宇宙)』という曲集は、“20世紀のバイエル”と、あまり光栄ではない紹介のされかたをしていた時期もありました(*バイエルは、もはや優れた教本とはいえないのは明確で、本国ではすでにほとんど使用されていません)。実のところ、『ミクロコスモス』はバイエルをはるかに凌ぐ、芸術的示唆と音楽表現の楽しさのつまった、優れた作品集です。
「作曲家であるという自覚をもった時から、私が常に意識してきた理想は、<民族は兄弟たれ>ということ。争い、戦うことなく、諸民族が兄弟として抱擁しあう、という理想のために、私は力の限り音楽という手段で努めてきたい」
そう語っていたバルトークらしく、『ミクロコスモス』には、祖国ハンガリーのものに留まらず、ルーマニア、スロヴァキア、ブルガリア、そしてアラブなどの民族音楽の素材が用いられています。まるで彼が、「音楽に触れるときには、楽器を弾くだけでなく、世界のさまざまな国のことや人々や暮らしに、思いをはせてみてごらん。地球の鼓動に、耳を澄ませてみてごらん」と、諭してくれているようです。
『ミクロ・コスモス』ならぬ『バルトーク・コスモス』…つまり、バルトークの宇宙、というテーマで、彼の音楽を中心としたコンサートチクルス(シリーズ)を組むことは、私の長年の夢です。どんなに長年かというと、ハンガリーから帰国してからずっとなので、かれこれ20年以上、ということになります。
かつて『バルトークとその周辺』という三回にわたるコンサートシリーズを企画し、バルトークやコダーイ、はては彼が初期の頃に影響を受けた新ウィーン楽派のシェーンベルクなどの作品も交えて、三回にわたってプログラムを組んだのですが、あらゆる面で難しさを実感しました。
まず、バルトークがまだまだ一般的には広く親しまれているとはいえないこと。たくさんのお客様の動員が見込みづらいので、スポンサーなしに催行するのは、経済的にもかなり大変なことでした。さらに、その作品もまた、親しみやすい部類には入りにくいこと。本当は難しいことなどなくて、ちょっとした要点をふまえれば、ぐっと理解が深まるのですが。それから、その作品の技術的・芸術的特異性から、共演者とのリハーサルが通常の何倍も必要になってしまうこと、などなど。
それでも、やはりどうしても、関わっていたい。私にとって、彼は、まさに、兄弟…家族のような存在になっているのかもしれません。
ピアノは登場しないのですが、大好きな作品があります。『カンタータ・プロファナ』。これは、ルーマニアの詞をもとにしてバルトークが書いた物語による声楽作品で、次のようなあらすじです。
あるところに、年老いた父親と9人の美しい息子たちがいた。父親は、息子たちに、獲物をとることしか教えなかった。来る日も来る日も、獲物を求めて森をかけめぐるうちに、9人の息子たちは鹿になってしまった。帰ってこない息子たちを探す父親の前に、ついに鹿になった彼らが姿をあらわす。それが息子とはわからず銃を向ける父親に、一番上の息子がいう。「愛する優しいお父さん!あなたが撃とうとしているのは、あなたの息子です。僕たちを打ったら、あなたは粉々になってしまいます」
ショックを受けた父親はいう。「かわいい息子たち!帰っておいで。お母さんの待つ家に、私と一緒に帰ろう」息子は父親にいう。「愛する優しいお父さん。あなたは一人でお帰りなさい。僕たちはもう、戻れない。僕たちの角は、どうして家の低いひさしをくぐれましょう。清い泉の水に洗われた僕たちの口は、どうしてコップの水が飲めましょう。僕たちは、清い泉の水を飲めるだけ。ただ、清い泉の水を。」
あまりにも多くの鹿を捕獲しすぎて、とうとう自らが鹿になってしまった9人の兄弟たち。家庭という限られた場所から別の世界に解き放たれ、深い森の中で真実を見出した彼ら。生きていくのに必要なだけの水とわずかな食べものしか食べずに、細くなった彼ら。一番上の息子のことばから、バルトークの、魂からのメッセージが伝わってくるようです。
そういえば、鹿は日本でも神さまの使いと信じられていますね。バルトークのいうように、本当に世界中の民族は皆、本来は兄弟・姉妹なのかもしれません。