第490回 喜怒哀楽 考
先週末、山形でのジュニアピアノコンクール本選会の審査を終えました。二日間にわたって、上は高校生までの子どもたち200人以上の熱演に触れ、元気と刺激をもらって帰りました。
まず感激したのは、予選の時からの成長ぶり。この一ヶ月ほどの間に、すっかり完成度を上げているのには驚きました。夏休みの間、この日のこのステージのために、熱心に練習に励んできたのでしょう。彼らの、笑いあり、涙ありの日々が目に浮かんできて、審査員という立場を忘れて、みんなにいい点数をつけたい衝動にかられてしまいます。
今の子どもたちは、ゆとり教育の歪みやら、情報社会の弊害などが懸念されていますが、彼らの潜在能力、精神的・肉体的なタフネスは、本来大人の想像以上です。よい経験、美しいもの、素敵なものに触れて受ける心からの感動を栄養に、どんどん、その基礎体力を増していくことができるのです。そう!生きていくうえでの、本当の強さ―――学力だけでなく、“人間力”―――を、養うためには、子供時代の過ごし方がとても大切なのです。
「いい音楽をたくさん聴いて、いっぱい感動してくださいね!」何人かの子供の講評用紙に、こんなことを書きました。練習をするのも、勉強するのも大事なことですが、喜怒哀楽をたくさん味わって豊かな感情を養い、何かに対して素直に感動できる心を育むことは、その数倍大事なことだと思っています。
喜怒哀楽、と、つい書いてしまいましたが、怒ること、哀しむことは、必ずしも“負”の感情ではなく、喜びや楽しみ同様に、人にとってとても大切なものだと思います(そもそも、感情には“正”も“負”もないのではないでしょうか)。肥沃な土壌に作物が実るように、豊かな心に様々な感情が芽生えるのは自然なことです。それを表現すること、または人から表現され、それを受け入れることは、まさに芸術のエッセンスなのです。
ただ、“感情”を大切に扱うことと、“感情的”に行動、判断することは違います。本来は人間の生きる力、感じる力を高めるはずの“感情”も、その扱いを誤ってしまっては、残念なことになってしまいます。
よく、巷で耳にするのは、『怒る』と『叱る』の違いについてです。相手に感情的になるのが『怒る』。きちんと理性をもって注意するのが『叱る』。ゆえに、「子供に叱るのはよいが、怒ってはいけない」などといわれています。
でも、果たしてそうなのでしょうか。私は『怒る』にもいろいろあるのではと考えています。実際、親から本気で“怒られた”経験を持つ子供は、少なくないのではと思うのですが、彼らは間違った指導を受けたのでしょうか?彼らにとってそれは、本当に不幸な出来事だったのでしょうか?
感情にまかせてだけ行動するのではなく、感情に愛情がしみ込んでいて、きちんと相手にそれが伝えられたなら、絆や信頼関係はさらに深まることもあるのではないでしょうか。一方、子供が大人に『怒る』ことはありますが、『叱る』ことは一般的にはありません。『叱る』というのは、どうも、上の立場にあるものが下に対して行なう、というニュアンスを持っているようです。
冷静に、相手に理解させようと説得するのは『叱る』より『諭す』というイメージです。よくよく見てみると、『怒る』には“心”という字が含まれています(“女”、という字も…)が、叱るのは“口”。諭すのは“言葉”です。
ですから、生徒さんを“叱る”必要を感じた時、私はあえて(心を鬼にして!)、“怒って”みせる時があります。しかも、本気で。感情を正直に伝えて初めて、通じあえることもあるのではないでしょうか。実際、彼らは本当にしっかりと私の言わんとするところを感じて、立派に受け止めてくれています(希望的見方かな?)。
『宗教とは、「希望」と「恐怖」を両親とし、「無知」に対して「不可知なもの」の本質を説明する娘』、『無宗教とは、世界中の偉大な信仰の中で、もっとも重要な信仰』と書いたのは、アンブローズ・ビアスだったでしょうか。本来、人を支えるはずの感情が、歪められてしまった時の悲劇への警鐘にも聞こえる言葉です。
人間に与えられている尊い“感情”は、人間同士のいざこざのためではなく、お互いの理解のためにこそ存在していて欲しい…。“感情的”にのみ判断し行動してしまい、多くを失ってしまうことのないよう、心がけたいものです。