第487回 見えないものは、感じるために
ホームページ開設を機にふと思い立って書き始めてから、かれこれ10年になるこのエッセイ(『ピアニストのひとり言』)ですが、またうっかりしてしまいました。先週はお盆で、お墓参りのため家を空けることになっていたのに、告知もせず、また連載に穴を開けてしまったのです。とはいえ、仕事や契約など関係なく、趣味で続けているだけのもの。苦情がきたり、どこかに迷惑をかけてしまうようなことにはならないとはいえ、穴は穴です。何年やっていても、なかなか成長できないものです。
でも、いつもこの時期になると思うのです。この先、いかに文明が発達しようとも、どんなに交通機関が混雑し、世の中が混乱しようとも、“お盆”という行事だけはなくなって欲しくないな、と。日ごろ深い孤独を感じて生きている人も、ご先祖様がいない人は一人としていません。その目に見えざる霊を迎え、供養したり感謝したりする習慣は、もはや宗教を超えた、スーパーナチュラルな…いや、スーパーナチュラルなんて超えた、日本人の精神的な心の支えになるものなのではないでしょうか。
平地を歩いていてもこけて怪我をするし、レッスン中は夢中になってつい、熱くなりすぎてしまうし、すまして歩いていたのに、ふと気付くと右左でちがう色のストッキングをはいていたり…。数字に弱く、待ち合わせやスケジュールの勘違いをしそうになってはヒヤヒヤ(実は、実際に過ちを犯してしまったことも…)することも少なくない天然ボケな私が、それでもなんとか社会の中で生きていられるのは、ご先祖様が見守っていてくださるおかげなのかな、なんて思ったりしています。
「楽譜に書かれているスフォルツァンドやアクセントは、王様。つまり、時の権力者だ。だから、とりあえず従っておかなければならない。でもね、一拍目…つまり、強拍には、神様がいるんだよ。それは、目には見えなくても、僕たちにとってとても大切な、普遍的な存在なんだ。一拍目を、いつもどこかで感じていること。それが、演奏の支えになるんだよ」
かつて留学中に、ハンガリーの恩師にそう教わった時、「う~ん、神様か…。それって、感覚的には無宗教な、典型的日本人の私には、理解しにくいものかもしれないな…」と思ってしまったのですが、後になって「神様」を「ご先祖様」に置き換えて考えると、なるほどなんだか分かるぞ、と気付きました。いや、必ずしもご先祖様ではなくてもいいのかもしれません。もともと日本は、“八百万の神”の国。存在を感じようとしさえすれば、山にも、海にも、風にも、神様の存在を感じることができるのです。
「いちばん大切なものは、目には見えない」サン・テグジュベリの書いた物語『星の王子さま』のなかで、王子がキツネからそう教わる場面があったっけ。テグジュペリその人は小説家であると同時に航空飛行家でもあり、大切な仲間を何人も飛行機事故で失っていますし、自らも地中海上空で消息を絶っています。彼が44歳の時です。
彼だけでなく、戦時中の兵士にせよ、「いつ何が起こるか(死ぬか)分からない」という極限の状態に生きていた人は、私には想像がつかないほど切実に、“今、目の前には見えないけれど、確実に存在している、心の支えになる何ものか”を、感じようとしていたことでしょう。
お盆になると、私たちは何ものかに守られながら、命と生きる時間を与えられているのだ、と、とても素直に感じます。彼らの肉体はこの世の中から消えてはしまったけれど、その魂の存在は、はっきりと胸に感じられます。それというのも、私が祖父や祖母に、とても可愛がってもらったからかもしれません。
「いちばん大切なものは、目に見えない」確かにそうだと思います。でも、ちょっとだけ付け加えたくなりました。「そして、目に見えない大切なものは、感じるためにある」…“見る”よりも、“感じる”ことができるほうが、ずっとステキですもの。