第485回 結局、人間力
夏のコンクール審査が一段落しました。ここ10日間ほど、東北地方と千葉の自宅を、せわしなく行ったり来たりすることが続きました。
連日100人を越える参加者の皆さんの、演奏の審査。演奏中は点数を出すだけでなく、一人ひとりの方に講評も書きます。それ以外の“休憩”時間にも、評議をしたり、賞状のサイン書きをしたり、審査結果発表の際に会場の皆さんに全体の総評をお話したり…と、目が回るようなスケジュールでした。東北地方とは思えないような猛暑とも相まって、すっかり身も心もへこたれることを予想していたのですが、終わってみると、案外――どころか、“かえって”――元気です。
途中、温泉つきのホテルに宿泊させてもらって、源泉かけ流しの湯に癒してもらえたことも、最後までバテずに持ちこたえられた一因だと思いますし、もちろん、いつものことながら、食いしん坊根性で各地で美味しいものをたくさん頂いたことも、パワーの源になりました。でも、何といっても大きかったのは、懸命な子供たちの演奏だったように思います。
すっかりコンクールに慣れているとみえて、ドレスの“あしらい”からステージマナー、最後の音の後の腕の“振りかた”まで、プロ顔負けの、完成度の高いステージをこなした子もいれば、緊張の面持ちででてきて、やっとの思いで最後まで“完奏”して、やっとホッとした様子で引っ込む子も…。
どんなに練習しても、ステージのライトのもとで緊張しないことなど、まずありません。いいえ、そこで緊張しないような感性だとしたら、それは逆に大問題です。ましてや、日頃熱心にこの日に向けてお稽古を積んできたのであれば、成果を出したい、と願って力が入ってしまうのは、ごく自然なことです。
次々に彼らの演奏が繰り広げられるのを審査していると、一人ひとりのステージから彼らの今日に至るまでの日々が垣間見えて、まるでノンフィクションのドラマのような、あるいはとても貴重なドキュメンタリーを目の当たりにしているような気持ちになりました。
業務上(?)、点数はつけます。でも、何度も声を大にして言いたくなりました。「あなたの良さは、点数ではとても測れない種類の、とても特別なものです。どうか、その気持ちを大切に、自分のちからや可能性を信じて、伸び伸びと生きて言ってください。確かに結果は大切なもののひとつだけど、芸術にとってはそれがすべてではありません。それどころか、結果や数値に表せないところにこそ、高い存在意味があったりするのですよ。音楽があなたに、これからも、生きるちからと幸福をもたらしますように…」
本選に進めるのは、参加者全体の一割程度の子どもたちだけです。さらに、本選に進んで、仮に最優秀賞をもらったとしても、その中から本当のプロのピアニストになれるのは、さらに一握りの人だけです。国際コンクールと名のつくものだけで、世界に300以上。国内のコンクールなら、もう数え切れないほどの数があるのですから、一位になる人が年間に何百人もいるということになるのです。オーケストラの入団オーディションで、伴奏のお仕事をすると、志願者が名だたる国際コンクールの覇者ぞろいだったりすることは、珍しくありません。
“コンクール”が何かの優越を競う会である以上、勝ち負けが発生するのは仕方のないことですが、本来音楽には、勝ちも負けもありません。良いか悪いか、すらも微妙です(だって、良い、はともかく、“悪い”音楽、なんて、思いつきませんよね?)。上手い下手、はあるかもしれませんが、それだって音楽のもっている様々な要素の一部分でしかありません。チェロの名手カザルスは、“上手い”と感じさせないようなものこそが本物なのだ、と語っていました。
音楽に大切なのは、単純に、それが“好きか、興味をもてないか”ではないでしょうか(興味がない、というのは、嫌い、というよりもさらに純粋な感覚だと思うのです)。弾き手の真面目さ、ひたむきさ、誠実さが伝わってくるような演奏が、私は大好きです。そういう意味では、コンクールでは私の“好き”な演奏と、たくさん出会うことができました。彼らに、たくさんのパワーをもらって帰ってきたような気がしています。
ピアノを弾いていると、作曲家の類稀なる才能に触れ、それを感じることに勝る喜びはない…と、しみじみ感じるのですが、音楽を聴くとき、弾き手の人間としての魅力や個性に触れることに勝る喜びは、ありません。
コンクールで弾いてくれた子供たちにとって、これからも末永く、音楽が心の拠りどころになりますように…。“no music,no life!(音楽がなくちゃ、生きていけない!)”というキャッチコピーを見たことがありいますが、私に言わせると“more music, more life!(もっと音楽、で、もっといい人生を!)”。