第484回 愛のカンパネラ
職業柄(!)、家にはたくさんのピアノ譜があって、それぞれの楽譜には思い出があります。
例えば、中学一年生の頃、お小遣いをためてやっとの思いで手に入れたショパンのピアノ協奏曲の楽譜。桐朋学園に入学して、初めて校内の地下購買部で買いもとめた楽譜。ハンガリーに留学中、あちこち探してもどうしても見つからなくて、そのことを月に一度寄稿していた音楽雑誌のエッセイに書いたところ、日本から友人が送ってくれたシューマンの『クライスレリアーナ』の楽譜やら、ブダペスト市内のとある楽譜屋さんで買った、古本ではないはずなのに完全に“古本”状態だった、よれよれのロシア製のラフマニノフの『コレルリの主題による変奏曲』の楽譜などなど…。
そして今、手元に、見るたび、触れるたびに懐かしさと愛しさがこみ上げてくる二つのピアノピース(*一曲ごとに別売り状態になっている楽譜)があります。私が中学生の頃、妹がプレゼントしてくれたもので、ひとつはリストの『愛の夢』、もうひとつは同じくリストの有名な練習曲『ラ・カンパネラ』です。
値段を見ると、それぞれ150円づつですから、二冊で300円。その時、二つ下の妹はまだ小学生、あるいは中学一年生だったことになりますから、いくらもお小遣いをもらっていなかったはずです。そこをなんとかやりくりして、私のリクエスト(ちゃっかりおねだり!)に答えて二冊、プレゼントしてくれたのでした。
実は、『愛の夢』も、『ラ・カンパネラ』も、その当時ピアノの先生に頂いた曲ではなかったのですが、自分がお稽古している曲とは別に、どうしても楽譜が見てみたくて…そして、是非とも音をひろってみたくて、仕方なかったのです。
小学校のころからあれこれとピアノの楽譜を見るのが大好きだったのですが、当時はもちろん、まだインターネットで閲覧したり、ダウンロードすることもできなかったし、近くに楽譜を貸し出してくれるような図書館もありませんでしたから、ショパンやリストの楽譜を勉強したくても、なかなかままならない状況でした。
「もし、私のお小遣いが月に一万円だったら、もっともっといろんな曲の楽譜が手に入るのになぁ。ん?待てよ、月に一枚レコードを買って、その残りを楽譜にまわす…っていうのも、いいなぁ」なんて、本気で(?)夢みていたほどです。
さて、妹から憧れの曲の楽譜をプレゼントしてもらったものの、果たしてすぐにそれを弾くチャンスがあったわけでも、すぐに弾けるようになったわけでもなく、長い月日が流れていきました。そのずいぶん後になって、『愛の夢』を弾く機会は巡ってきたものの、『ラ・カンパネラ』については、なぜかその機会を得ることなく、年月が過ぎてしまいました。
いろいろと思うところがあって、ここ数年ハンガリーの作品から離れていたのですが、今年の秋、久しぶりにリサイタルでリストとバルトークを取り上げることにしました。妹からもらった『ラ・カンパネラ』のピアノピースの楽譜を見て、ふと、「これを弾いてみようかな」と思ったことも、切っ掛けのひとつになりました。
かつて妹は、私と同じくらい熱心にピアノを習っていましたし、とても上手に弾いていましたが、彼女は私と違って他にも得意なことがたくさんあったので、音楽ではない分野に進むことになりました。今では、二児の男の子を持つ、立派な“働くお母さん”ですが、毎年、私の誕生日が近づいてくると、あの頃と同じように「お姉ちゃん、お誕生日のプレゼント、何がいい?」と尋ねてくれます。
その、リストとバルトークを弾くリサイタルの翌日(*仙台公演の方)が、私の誕生日。もし、また妹からプレゼントを尋ねられたら、「何か、緊張しないでのびのび弾けるおまじない」を、リクエストしてみようかな?
(*都合により、7月最終週の更新はお休みいたします。次回の更新は7月30日の予定です。)