第478回 器に学ぶこと
食器、花器、そして楽器…“器”が好きです。
陶磁器には、土の特性やその土地の湿度や気温、焼かれる時の温度や時間、それにもちろん作り手の技法や絵付けのセンスが反映されますが、同じ窯元で焼かれる陶器にも、ひとつとして同じものはありません。同時に釜に入ったものにも、焼き釜の中のちょっとした熱対流のちがいやら灰の飛び方(!)やらによって、出来栄えにははっきりとした個体差が現れます。
器の魅力は、そんな手作りの良さにあるのではないでしょうか。お母さんの作るお味噌汁やお漬物の味が、毎回微妙に違うのも、バッハを弾くたびに違うアプローチになるのも、手作りだから。一定しないものだからこそ、愛着や親しみがわくことって、あると思うのです。
盛り付ける器によって、料理も随分違った表情になるのは、楽しいことですし、草花も、それを生ける花器によって、涼しげに見えたり寂しげになったり、と、様々な表情の変化をみせてくれます。
花器と、生けれられる花の間には、相手の個性や潜在している魅力すらを引き出す組み合わせもあれば、それらを生かすどころか拒絶しあってしまうような取り合わせもあって、それがなんともスリリングです。例えば、末枯れの竹に、蔦やススキを合わせるのと、桃の花を生けるのとでは、ずいぶん違ったメッセージを発信することになるでしょうし、場合によってはちぐはぐな景色になってしまうことでしょう。
そして、楽器。ピアノは他のものに比べると、若干複雑なメカニズムを持ってはいますが、それでも決して“楽機”にはなりません。楽器は、才能や素質、個性の“器”なのです。バッハを弾くということは、ある意味で、ピアノとい
う楽器に、バッハの作品に弾き手の解釈や味付けを加えたものを、楽器という器に“生ける”ことだ、ともいえます。
日本には「あの人は、それほどの“器”じゃない」「彼は、かなりの大器だね」などと、人格を器にたとえる表現があるのも、興味深いことです。そういえば、他にも、器用、とか、器量、とか、人の素質や才覚を表わすのに器という字はよく使われます。
それにしても、楽器が“音器”ではなく、“楽器”なのは、面白いことです。それは、楽器が単に、音(サウンド)だけでなく、音と音の間の美しい沈黙やわくわく感、和やかな雰囲気までもを“生ける”ものだから、という意味からかもしれないな、と、勝手に思っています。
話は変わりますが、先週のエッセイに登場した3歳の女の子が、私のところで一緒にお勉強することになりました。まだ生まれて3年しか経っていない、やわらかく初々しい小さな手には、どう考えても大きすぎる楽器の鍵盤に、懸命に触れ、全身で楽しみを感じようとする姿の、なんと可愛らしいことでしょう!
楽器という“器”は、まだ手の甲にエクボがあるような幼い手も、人生の中でたくさんの仕事を丁寧に重ねてきた手も受け入れ、その手の持ち主と響き合おうとしてくれます。私もこれまで、どんなにこの“器”に救われ、励まされてきたことでしょう。
気持ちや愛情のこもった手作りのものを求め、それを尊重し、支えながらお互いを生かしあおうとする“器”。そんな人間の“器”になれる日が、いつかくるといいのですが…。
ところで、魚を入れる器は、“魚籠(びく)”といって、籠状をしています。籠は器と違って、運搬することを前提に作られているので、軽量ですき間だらけ。それが魚の運搬には最適なのですが、液体には適しません。思うに、私の器はまだ、籠レベルなのかもしれません。嗚呼、道のりは遠い…。