第475回 不滅の“3B”
本屋さんでなんとなく語学のコーナーをうろついていたら、『旅の指さし会話帳(情報センター出版局)』という本を見つけました。旅の各シュチュエーションごとに可愛らしいイラストでよく使われそうな単語や会話が記載されていて、眺めているだけでも楽しくなってくる構成がウリのシリーズです。
友人にフィンランド編を見せてもらったこともあって、以前からその存在は知っていました。英語やドイツ語といった一般的なもののほか、中国語は北京、香港、台湾、雲南、西安…と、細分化されているし、同じスペイン語でもスペイン、ペルー、キューバ、メキシコ…と、様々な国が別個に設定されていますし、スリランカ、アフガニスタン、モルディブ、パキスタンなど、他ではなかなかお目にかかれないような国の言葉もカバーされていて、なかなかユニーク。でも、このシリーズに実は国内編があったことは、昨日まで知りませんでした。沖縄編です。
沖縄では、ちょっとした言い回しやイントネーションだけでなく、それこそ東西南北も独自の言葉を持っている、とは、聞いたことがあります。東は、太陽が昇ることから「あがり」、太陽が“入っていく(沈む)”西は、「いり」。ふむふむ、なるほど、なんとなくわかるわかる、と思ったらところがどっこい、北は「にし」と、意表をつかれ、さらに南は「ふぇ―(あるいは、へー)」。しかも、これはあくまでも本島での言い方で、これが宮古や八重山になるとまたちがう言葉になるそうです。
お国訛りのことを“アクセント”といったりしますが、ハンガリーを代表する作曲家バルトークの楽譜を見ていると、彼がいかに、アクセントという“お国訛り”の化身を大切に扱い、後世に伝えようとしていたかをうかがい知ることができます。アクセント記号だけでも何種類もを書き分けていますし、さらにそれがつけられている音符の長さや奏法(テヌートなのか、スタカートなのか、スラー・スタカートなのか、等など…)によってもまた、ニュアンスが変わってきます。細かい記述はアクセントだけではありません。テンポ表示やその他の強弱の変化に関する記号、アーティキレーション(スラー、スタカートなど)の表記はもちろん、参考演奏に至るまで、綿密にミッションが書き込まれているのです。
見落としてはならない、細やかな指示でいっぱい(作品にもよりますが)な彼の楽譜は、必要な音符だけが書き込まれたバッハのそれとは、一見すると対照的な印象です。バッハの楽譜が、弾き手がそこから様々な発想をおこし、“自己責任”において、きちんと解釈や構成を組み立てていくことを前提に楽譜を書かれているのに対して、バルトークの楽譜は、誠実に、かつ親切に、どう弾けばよいのかをガイドしてくれているようにも受け取れます。民族音楽のもつ微妙な“訛り”やリズムの“ゆらぎ”のようなものを、まったく違う国や文化をもつ人間に伝えようとしたら、必然的にそうなることでしょう。つまり彼は、本来なら口伝えでしか教えられないようなニュアンスを、譜面という限られたツールを駆使して、あの手この手で指し示してくれているのです。
1685年生まれのバッハと、約2世紀を経て1881年に生まれたバルトークでは、生きていた時代も音楽的な背景も異なるので、単純に比べることはできませんが、楽譜を見ていると彼らの人となりが伺えて、興味をそそられます。
そこへいくと、1770年生まれのベートーヴェンは、生まれたのもバッハとバルトークのほぼ中間ですが、彼の残した譜面も、その二人のちょうど中間のような感じです。必要にして充分なことがきちんと書き込まれ、バッハのように弾き手が自由に曲想をイメージできる部分もありますが、その一方で、彼自身の意図も明確に読み取れる…。バランス感覚に長けていて、とても知性的な印象を受けます。
ベートーヴェンは、ハンガリーに大切なパトロンがいたこともあり、ブダペストに滞在していたことがありました。彼がいたのは、私の住んでいたブダペスト12区のキラーイ・ハーゴ通りから一本違いのところで、今は“ベートーヴェン通り”という名前になっています(嗚呼、この通りに住めたら素敵だったのに!)。また、バッハは、自分の一族はハンガリーが起源で、ルター派だったためにハンガリーを追われ、ドイツに移り住んだファイト・バッハというハンガリー人だったと書き残しています。
バッハ、ベートーヴェン、ブラームスの三人を『ドイツの“3B”』呼んだりしますが、私の“3B”は、ハンガリーゆかりの(?)、バッハ、ベートーヴェン、そしてバルトーク。この三人の“ミスターB”は私にとって、心の中の“不滅の恋人”です。
昨年のバッハに続いて、今年は久しぶりにじっくりバルトークを弾いてみたい、と思っているこの頃です。