第453回 秋のソナタ

いよいよ紅葉も終わり…という頃に目を奪われるのが、イチョウです。

すでに冬の気配が漂いはじめている透明な空気と穏やかな陽ざしに、その葉は黄金色にきらきらと輝いて、秋の終わりを謳歌しているかのよう…。独特のシェイプを持つまばゆい黄色の葉っぱは、紅葉の赤よりもさらに温かく感じられ、静かに冬の到来を告げてくれます。

ドウダンツツジやナナカマドなど、日本ならではの紅に染まる紅葉の素晴らしさは、世界にも類を見ないものと思っていますが、イチョウなどの“黄葉”を見ると、ヨーロッパを思い出し、懐かしさに胸がキュンとなります。雨上がりの、濡れた石畳にはりついた黄色の落葉。あるいは、小春日和の昼下がりに落ち葉を踏みしめながら散歩した時の、葉っぱを踏みしめるあの感触と乾いた音…。皆が楽しみにしている新酒解禁の時期(日本と違って、とてもお安いのです!)と重なるも、晩秋の風景はいずこもどこかもの悲しく、なんだか人をちょっと感傷的にさせてしまうようなものがある気がします。

先日、ショパンの『24の前奏曲』を、久しぶりに弾いてみました。24曲中、最も有名なのは15番の“雨だれ”ですが、第7番も、とある胃腸薬のコマーシャルでよく知られています。

私がひときわ思い入れを抱いてしまうのはホ短調の第4番。ベルイマン監督によるスウェーデン映画『秋のソナタ』で、イングリット・バーグマン演じる主人公のピアニストが、久しぶりに訪れた長女の家で、この曲を弾くシーンがあるのですが、その中で、なんとバーグマン自身が、曲の最初から最後までを弾いているのです。それも、世界的なピアニストとして!

嗚呼、イングリット・バーグマン!彼女の、匂いたつ百合の花のような美しさに、青春時代の私はゾッコンでした。やや力みがちになる情熱的な演技も、美しさと同じくらい豊に漂う女性的な強さも、その知的な美貌も、とにかくすべてが憧れだったのです。周囲には、どちらかというとヘップバーンのファンの方が多かったのですが、万人に好かれる可愛らしさをもつヘップバーンとは違って、近寄りがたいほどに気高いバーグマンには、まっすぐな人特有の、ある種の不器用さのようなものが感じられて、逆に、一方的に親しみをいだいていたのかもしれません。

そのバーグマン演じるシャーロッテは、次女レナが障害を持って産まれたというのに、そのケアを周囲に任せ、自身は奔放に、演奏活動や恋愛(!)に、忙しく世界中を飛び回っているピアニスト。物語は、愛人と別れ、傷心した彼女に、長女エヴァが「一緒に暮らしましょう」と呼びかけて、久しぶりに母娘が再会するところに始まります。季節はちょうど、黄色い葉っぱの落ちる、晩秋。北欧の晩秋は、寒さと同時に“暗さ(日照時間が短くなる)”が近づいていることを意味します。

それまでは、母親らしく娘たちの近況などを聞いていた彼女が、夕食後ひとたびピアノの前に座り、楽譜を開くとふっとピアニストの顔に変わり、近づきがたいほどに自信に満ちた表情で演奏に没頭する…。その迫力と演技の素晴らしさに、20歳になったばかりの私は完全にノックアウトされました。

物語の焦点は、その晩に、母の後ろ姿をどんな思いで見送りってきたか、と切々と訴える長女とシャーロッテとのダイアログ(会話)に集約されます。「私はママが好きだった。ママは誰よりも私の誇りだった。でも、同時に憎みきれないほど憎かったの。それがどんなに辛いことか、ママにわかる?私がレナと、どんな思いでママを見送ってきたか、考えたことある?ママ、私にあやまってちょうだい!」

長女の思いがけない告白に激しく動揺し、涙に崩れながら「ごめんなさい」を繰り返す彼女の顔には、もう一線で活躍しているピアニストの華やかな誇りや、数時間前に自信に満ち溢れて第4番のプレリュードを弾いた彼女の残像は、みじんもありませんでした。その代わりにそこにあったのは、“母親”になりながらも、それを全うできなかった人間の、哀しさ、空しさでした。人間の幸せとは?誇りとは?家族の精神的な支えがないことにすら気づかないままキャリアに生きることは、家族の不理解よりも辛いことなのかもしれない…。

ヨーロッパ映画そのものにも慣れていなかった20歳の私が、この映画の深刻なテーマを、必死に受け入れようとしたのは、バーグマンと長女役のウルマンという、二人の俳優の圧倒的な演技に心動かされたからではないでしょうか。特に、ハリウッドの聖女とも謳われたあのバーグマンの、よれよれに崩れたシワだらけの泣き顔は、目に焼きついています。しかも、とても感動的にです。なぜなら、それはなんとも美しくて、愛おしさすら感じるものだったからです。

この『秋のソナタ』は、「生の最後まで演技をした」と言われたバーグマンの、まさに最後の主演作品となりました。

因みに、映画の中で、そのバーグマンを凌ぐほどの演技を見せた、長女役のリヴ・ウルマンさんは、ベルイマン監督とは公私共にパートナーだったし二人の間には子供もいたのですが、別の男性と結婚し、現在はその方とニューヨークに住んでいるそうです。2000年に彼女が監督した作品は、ベルイマンが脚本を手がけたとか…。

幸福とは?結婚とは?…ふと、考えにふけってしまったのは、夜空に浮かぶ美しい月に、つい、感傷的になってしまったからでしょうか。

2009年12月04日

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