第451回 最高の賛辞
リサイタルSYMPOSIONが終わったとたんに寒くなって、慌てて冬がやってきたような日が続きました。桜並木は落ち葉通りになって、木々も人々の装いも冬支度…。リサイタルの準備で、今年は紅葉をじっくり見ることができなかったことに気づいて、なんだか「秋」という季節に忘れ物をしてしまったような、寂しさを感じています。
紅葉の季節に旅をするのは、特に好きです。旅といっても、必ずしも宿泊したり遠くに出かけたりしなくても、小さな旅でも、いいのです。日常では足を伸ばせないところに日帰りでドライブするのも、ちょっとした“旅”気分が味わえます。仙台の実家の周辺は、日帰りでも充分堪能できる、素晴らしい紅葉スポットに事欠かないので、そういう意味ではとても贅沢なロケーションといえるかもしれません。
“旅”と“旅行”は、何か絶対的なニュアンスの違いがあるように思います。英語で言う“トリップ”と“ジャーニー”の違い以上に…。感じ方は人それぞれだと思うのですが、個人的には旅は小さいものから大きいものまで、期間は問わないけれど、気ままで自由な「放浪」を想像しますし、旅行というと予めある程度綿密(?)にプランを組んで、観光や買い物などをシステマティックに「こなすこと」というイメージがあります。修学旅行、団体旅行、研修旅行…などというイベント性のものが、定着しているからかもしれません。
ちなみに、私が好きなのは断然、旅の方です。ふと行きたくなって、「じゃぁ、行ってしまおう!」と、ふらっと出かける旅…なんて、なかなかできるものではありませんが、とても憧れます。旅好き、旅行好きには、同じところを何度も訪れるのを好む人と、次つぎに違うところに行きたい人の、2タイプに分かれるように思いますが、私は前者の方。もちろん、色々な場所に興味もありますし、出来ることなら知っているところにも知らないところにも、たくさん旅をしたいのです。でも、どちらかといったら、同じところを何度も訪れ、あくせく観光したり買い物したりしないで、のんびりその土地の空気と食べ物を味わって過ごすのが、最高に贅沢なことだと感じています。
たとえ同じ場所でも、訪れる季節によって、またその時の自分の状態によって、こんなに違うものか、と思うくらいに受ける印象は多様です。それははまるで、聴くたびに新しい発見があるバッハやベートーヴェンの音楽のようです。その地で目に飛び込んでくるものや、ふと気づくこと、感じることは毎回のように変化するのが分かって、自分のもっている感覚を再確認できるような気がするのかもしれません。
何度でも行きたいと感じるのは、まず風光明媚な観光地ではありません。蔵王の山々だったり、芋煮でにぎわう秋保近辺の渓谷だったり、水芭蕉の美しいちょっとした穴場だったり…。そこにいると心地よくなって、心と体が本来の健やかさを取り戻すような感覚をおぼえる場所なのです。そういえば、好んでいつも聴きたいと感じる音楽も、有名な曲よりも穴場的(?)“お気に入り”が多く、やはり似たような傾向があるかもしれません。
演奏も然り。歴史的な名演奏、と名高いものは確かに素晴らしいのですが、いつも触れていたいか、というと意外にそうではなかったりするのです。それよりも、その人の人となりが感じられ、それに惹かれて愛着を感じるものと出会うととても嬉しくなって、何度でも聴きたくなるのです。恐らく「また行きたい」と、「また聴きたい」は、私の場合、脳みその中の同じような回路を経て感じる欲求なのでしょう。
さらにそれは、「また会いたい」と感じる人にも通じるように思います。もっとたくさんの時間や話題を共有したいと感じるのは、その人物の地位とか知名度(?)とはまったく関係なく…人間的な魅力を感じたり、興味をひかれるかどうか、その人と楽しい時間を過ごせるかどうか、に尽きます。
…と、これらを総括すると、私にとっての幸せとは「“また聴きたい”、と感じる音楽に日々囲まれ、“また会いたい”、と思う人に恵まれ、“また行きたい”、と思う場所をたまに旅すること」となります。一つ一つはささやかではありますが、実はとても贅沢なことです。
今回のSYMPOSIONでは、いらしてくださったお客様から、今までになく「また聴きたい」というコメントをたくさん頂きました。皆さまが、私が「また聴きたい」と感じるように、そう思ってくださったとしたら、もうそれは私にとっての最高の賛辞です。今までで一番難しい(地味な?)プログラムだっただけに、ひときわ嬉しくて、それこそ演奏者冥利に尽きるというものです。
皆さまからの温かなお励ましをいただいて、「また弾きたい」」「これからも弾いていたい」と、さらに贅沢な望みを抱いた私です。
リサイタルにいらしてくださった皆さま、ご協力くださった皆さま…本当にありがとうございました。