第450回 メッセージを、届けたい
お芝居を観るのが大好きな友人曰く、「気に入るとね、同じものを何度も観にいくのよ。最初の頃はまだ堅さがあるけど、それがまたよかったりするの。中盤で小慣れてくることが多いから、そのへんで観にいくのが無難なのだけど。で、最後の方になると、ものによってはだらけてきたりね…同じ演目でも、微妙に違ってくるところが面白くて」なるほど、それはそうとうにツウねぇ、と、感心しながら相槌を打ちつつ、ぼんやりとそれと似たようなことが他でもあったような気がしていました。
そう、私です。ハンガリー留学時代のことですから随分昔になりますが、あまりに素晴らしくて、二晩続けてまったく同じコンサートに足を運んだことがあったのです。ミクローシュ・ペレーニというハンガリーを(現代を?)代表するチェリストが、C.P.E.バッハ(J.S.バッハの次男坊)の協奏曲を演奏した時のことでした。
初日、あまりに素晴らしかったので、ひとこと「素晴らしかったです!ありがとうございました」と伝えたくて、終演後に楽屋を訪れたのですが、なんとペレーニ氏は、今、弾き終えたばかりの曲の一部を、楽屋でゆっくりなぞるようにおさらいしているではありませんか!しかも、今しがた、あれほど完璧に演奏し終えたところだというのに…!これには本当に驚きました。そして、この情熱と謙虚さがあるからこそあんな演奏ができるのだわ、と、改めて感動したのでした。
それにしても、同じものを何度も観に(聴きに)来るファンがいるなんて、すごいことです。でも、まてよ…?そういえば、恐れ多くも、こんな私にもそんな奇特(!)なファンがいることに、ふと気づきました。数は多くはありませんが、数の問題ではありません。なんてありがたいことでしょう。東京公演が明後日に迫った『SYMPOSION Ⅳ』も、仙台、東京の両公演を聴きにいらしてくださる方がいて、どんなに励みになっていることか!…感謝すると同時に、恥ずかしい演奏はできないぞ、と、思わず武者震いしてしまいました。
それにしても、バッハは、弾けば弾くほどにその懐の深さを実感する稀有な作曲家です。思えば、初めてバッハを弾いてからかれこれ40年近くもの(トシがばれる!)年月が経つのですが、その魅力は年を追って増すばかり。バッハの音楽が、こんなにそばにあって心地のよいものだとは、思っていませんでした。いつもなら、コンサート直前は、あまりあれこれ考えすぎると眠れなくなってしまう(こう見えて結構小心者…)ので、練習時間意外はあまり音楽のことは考えないようにしているのですが、実はこうして原稿を書いている間も、感動で泣きそうになりながらバッハの『マタイ受難曲』を聴いているありさまです。
『マタイ受難曲』は、よくバッハの最高傑作、とか人類の宝、と言われていますが、若い頃はそれがこんなにもすごい作品だとは、きちんと理解できていませんでした。その素晴らしさを言葉で説明するのは、とてつもなく難しいことですし、私の仕事はそれを言葉ではなく、音を通して伝えることなので、ここではあえて語ることを控えます。でも、マタイに限らず、バッハの音楽を弾いていると―――あるいは、聴いていると―――ふとメッセージが聞こえてくることがあるのです。
「あなたが苦しいのだとしたら、それはあなたが懸命に生き、純粋な魂を持った“善”の人だからですよ」
「とにかく、そのままを受け入れなさい。そして、感謝という支えを失わないようになさい。あなたが強くなる方法があるとしたら、そのことあるのみです」
「恐怖を感じているのであれば、その必要はありません。なぜなら、一番恐ろしいのは、それを感じることができなくなることだからです」
「愉しみも、幸福も、得ようとするものではなく、感じようとするものです。だってそれはいつもそこにあるのですから」
天の声?幻聴?(確かにお酒は好きだけど、そこまでは…!)どちらしにても、ありがたい啓示です。
メッセージは、自分でバッハを弾いているときだけでなく、生徒さんのレッスン中に“降りて”くることもあります。そんな時は、何らかの形で…例えば、別のアドバイスの中に刷り込んだりして…それを生徒さんにも伝えるようにしています。今日も、ある大人の生徒さんのレッスンでそんな瞬間がありました。「今、美奈子先生のおっしゃったこと、ピアノだけでなく、私のすべてに当てはまることなんです。でも、自分ではなかなか気づかないものなんですよね。おもしろい…心の中を、裸にされたみたい」そう!それこそが、音楽のちからなのです。
バッハとフランクの練習に明け暮れる、厳しくも幸せな日々も、残すところあとわずか。“そのままを受け入れて”本番を迎えられるかどうかはわかりませんが、足を運んでくださる方々や、これまで支えてくださった方への感謝の気持ちだけは失わないで、ステージに向かいたいと思っています。バッハやフランクのメッセージが、どうか届きますように…。