第448回 おかあさんのひざ

「クラシック音楽とは私が理解するに、過去の作曲家が描いたスコアをどう解釈し、人に読み聞かせるか。音符と音符の間、小節と小節の間という行間を読んで人に伝える作業、つまり、究極の読み聞かせみたいなものだと思うのです。」

旦那様が音楽家で、自らはエッセイや絵本の翻訳も手がけているというある芸能人のエッセイに、こんなことが書いてありました。日頃、私が折にふれて生徒さんにも話している内容ととても似ていて、わぁ、この方もそんな考えの持ち主なのね、と、仲間を見つけたようでちょっと嬉しくなりました。

それにしても、“究極の読み聞かせ”とは、さすがの表現です。読み聞かせの効用には1.聞く力を育てる。2.ことばからイメージする力を育てる。3.本に対する興味を育てる。4.読み手と聞き手の交流、などがあげられるようですが、ことばに“音”、本に“音楽”をあてはめると、まさに音楽の効用(?)にもぴったりと一致します。

音楽を聴くことと同じくらい、本を読むのも読んでもらうのも好きな子供でした。自力で一つ一つの文字や絵を追い、一枚一枚ページをめくって読み(見?)進めていくのもよいのですが、母に本を読んでもらう、というのはいっそう特別なことでした。今思い起こしてみると、母は声色や間、表情を工夫して、なかなか上手に読んでくれていたように思います。大好きな曲は何度もくり返し、聞きたがる子供でしたが、おもしろいことに気に入った物語もまた、何度も何度も、くり返し読んでもらうことを要求したそうです。

そういえば、その頃は映画館に行っても、必ず二回、同じ映画を続けて見ていました。二回目には、一回目で気づかなかったことが目に入ってきたり、一回目とはまた違うとらえ方ができたので、決して飽きることはありませんでした。音楽や本にしても、何度もくり返し聞いたり読んだりすることによってこそ得られる楽しみ、というものを、幼いなりにも理解していたのかもしれません。

ある時、お気に入りの『ダンボ』を、例によって「もう一回読んで!」と、あまりに何度もせがむので、面倒になった母が「今度は美奈子ちゃんがママに読んでちょうだい」と言ったところ、最初から最後まで暗誦してみせたのだそうです。まだ文字が読めなかった頃だったので、母はたいそう驚いたようですが、子供は誰でも何かしら、そのような能力を持っているものですから、特別なことだとは思いません。

因みに、妹はまだ読み書きができない頃に世界の国旗と国名をすべて覚えていましたし、弟はその時分、車という車の車種とメーカーをすべて言い当てることができました。天才少年、天才少女、と、巷ではよく騒がれますが、ある意味では子どもはみんな天才なのだと思います。(むしろ、大人になってなお、子供のままの感覚・感性を持っている人こそが天才なのでは…?)

強いて言えば、私が一冊の本を暗誦できたのは、母の読み聞かせを、温かな母のそばで、あるいは柔らかなひざの上で、この上なくリラックスして聞いていたからではないでしょうか。人は、心からくつろいだ楽しい時にこそ、持っている能力や想像力を発揮できるものだと思うのです。かのモーツァルトは、友人とおしゃべりしながらも楽想がわいた、ということが、いかにも彼ならではの特殊な天才性のひとつとして語られていますが、逆にリラックスした状態からではないと、楽想はなかなか涌き出てこないものではないでしょうか。ベートーヴェンにとってのそれは、散歩のひとときだったそうです。

母の読み聞かせに耳を傾けていた私は、完全に守られた、リラックスした状態だったはず。想像力も記憶力も最大限に発揮できる環境だったのだと思います。本の読み聞かせにしても、音楽を鑑賞するにしても、小さな子供にとって一番大切なのは、先ほどあげた“効用”のようなものよりも、そんなふうにして自分の無限の能力に触れることの体感にあるのかもしれません。

でも…大人になってもそんな母の膝の上のような場所がほしい、と、願うのは贅沢なことでしょうか。あの頃のように無邪気であどけなくはなれませんが、大人にも、ふとステキなインスピレーションを得られるような、くつろいだ場所があったら、どんなにいいでしょう!

それを、聴いてくださる方に提供できる人になることが、私の目標です。つまり、おかあさんの体温には及ばないけれど、精一杯の温かな音で、そして、胎内で誰しもが聞いていた母体の血流のような、自然なテンポの流れにのって、音楽の“読み聞かせ”をできる人になることです。そして、コンサートの会場を、お客様にとっての“おかあさんの膝の上”のような場所にできたら!…と、いうのは夢のまた夢で、現実はまだほど遠く、楽器を前に一喜一憂、四苦八苦している日々です。

(*次回更新は、仙台でのリサイタル前日のため次週11月6日の夜の予定です。どうぞご了承下さいませ)

2009年10月23日

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