第438回 つながっていたい
暑さ本番!でも、夏は暑いからいいんです。暑い夏、熱い気持ちで乗り切るぞ!…と、意気込みつつも、夕方になると、一日頑張った自分を冷たいシュワシュワ(注:アルコール)で労いたくなるこの頃です。
この10数年間、夏の風物詩(?)のように関わらせていただいているピアノコンクールの審査のお仕事が、先日終わりました。今年は山形県と福島県、4箇所の会場で6日間審査したのですが、その数およそ700人ほど。審査は100点満点で点数を出し、さらに一人ひとりに講評も書いてお渡しすることになっています。
手書きよりも、パソコンのキーボードや携帯メールなどで文章を書く頻度の方が高くなって幾歳…。今年もこの6日間で、このお仕事以外の1年以上分もの“手書き量”を全うしたことになります。講評用紙にむかいながら、漢字は年々出てこなくなるわ、鉛筆のあたる中指が痛くなるわ、と、日頃の勉強不足を思い知らされた日々でした。
でも、ふと、同じ文章も、もし活字で印字されていたらきっと印象も違ってくるのでは、と思ったりもします。例えば、「丁寧なアプローチで、またよいテンポで弾いていますが、メヌエットらしい三拍子の“はずみ”をもっと感じてみてください。どの拍も同じにならないよう、左手の弾きかたも工夫できるとよいでしょう」なんて、活字で読んだらあまり面白くない指摘も、少しでも思いを伝えようとして、必死さでぐしゃぐしゃになっている私の字で見れば、ちょっと哀れになって、「そうかそうか、なるほど」なんて、納得してくださったりするのでは、と…。やはり、下手でも手書きのほうがいいに決まっています。
言葉もそういう部分があるかもしれません。そういえば、わたしは東北地方のレッスンでは、多少東北弁を盛り込んでお話しすることにしています。「あら、そんなに早く弾くものではありませんよ」と、「な~んだや~、そんなに早ぐ弾くんでね~」とでは、受ける印象が大きく違う気がしませんか?「そうです。ほらね、やればできるでしょう?」も、東北弁だと「んだよ~!ほ~れ、や~ればできるっちゃ~?」
私が生徒だったら、東北弁のほうがずっと楽しい気持ちになるし、緊張がほぐれてなんだかリラックスして弾けるような気がします。特に、特別レッスンや公開レッスンのような、その生徒さんとその場で初めてお会いするような場合、私が東北弁になったとたんに、彼らがにっこり笑顔を見せて、ぐっと心を開いてくれることが少なくないのです。
つまり、手書きも方言も、人のコミュニケーションにおいて、それぞれに大切な機能をもっているということになります。と、いうことは、手書きが減ったり、方言が廃れたりする、ということは、人間どうしのコミュニケーションにとって、マイナスな方向に進んでしまうことになるのかもしれません。音楽もまた、コミュニケーションに欠かさないアイテムだと信じている私にとってこれは、忌々しき現象です。
そういえば先日、脳のお医者様が某長寿テレビ番組の中で、「手や口を動かすことは、脳の老化を防ぐばかりか、アルツハイマーを改善する効果も実証されつつある」とお話されていました。つまり、周囲の人と方言でどんどんおしゃべりして、刺激をうけ、手書きでお手紙をたくさん書いて、気が向いたら楽器を弾く…なんていう生活が、人間の心にとっても体にとっても、健康的なのだ、ということになります。
この頃、生徒さんのレッスンに同行されないお母様には、月に一度、手書きでちょっとしたメモをお渡しすることにしています。内容は、生徒さんのレッスンでの様子や、交わした会話から感じたこと、はたまた、お心遣いの品をどんなに喜んで美味しく頂いたか、というお礼など、他愛もないことなのですが、生徒さんやお母様のことを思いながらペンを動かすのが、私にとって、とても楽しい時間になってきています。
そして、人はやはり、誰かとつながっていたいものなのだ、つながりを感じていたいのだ、と、改めて思ったりします。考えてみたら、お盆だって、そうです。目には見えなくなってしまったけど、間違いなく存在してくれていたご先祖様に思いをはせ、できることなら家族が集まって、その御霊をお迎えし、感謝する…つまり、目に見える(生きている)人だけでなく、目には見えなくなってしまった家族にも敬意を払い、その御霊とつながっている自分の存在を感じ、感謝して、生きる糧を得る。考えてみたら、実に素晴らしい風習です。
近くにいればなんのかんのと言い争いにもなるけれど、それも家族であるがゆえ。たとえそうであっても関わりあうことを億劫がらず・・・でも適度に力を抜いて・・・コミュニケーションを楽しんでいたいものです。
う~む、そんな家族になれるような恋人と、いつ出会えることやら。(世間はこんなに“夏”なのに、私のところはまだ“春”にもなっていない…?)