第433回 てくてく歩きのドイツ日記 ⑤ ~ライプツィヒ其の二~
5月22日午後10時過ぎ。ゲヴァントハウスのホールを出て、やっと夜色になってきた空の下、ホテルまで歩く。ホールの中でおこった何もかもがまるで夢のようだったし、こうしてホールからホテルまでを、幸福な余韻に浸りながら歩いて帰っているのも、なんだか夢のようだ。
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートは、とにかく素晴らしかった。指揮者のリッカルト・シャイー氏は全体を速めのテンポで一見淡々と運んでいたけれど少しの不足もなく、完璧なバランス感をもってベートーヴェンの作品そのものと、この特別なオーケストラの持ち味を存分に引き出すことに焦点を絞ったようなアプローチだった。オーケストラは特にファゴットが際立っていて、どんな弱音にも神経と耳を奪われてしまう…。かつて初恋の男の子の姿をつい、目で追いかけてしまったように、その音に吸い寄せられるのだ。ベートーヴェンって、こんなにファゴット・ファンだったかしら?楽しい発見だった。とはいえ、そのファゴットも周囲と完全に調和している。メンバーがお互いに尊重しあい、共感しあっているような印象だった。その彼らの呼吸や共鳴を一緒に感じられるのは、こんなにも幸せなことだった!
休憩時間には、ケータリングがある。シャンパンはモエ・シャンドン、ワインはがきちんと吟味された、地元の定評あるワインケラーのものが入っていた。もちろん、地ビールもあったのだけど、圧倒的にワインを注文している人々が多い。私も白ワインを頂いて、他の人たちのマネをして、開け放たれた二階のロビーの大きなドアから、外のバルコニーに出てみた。普段よりちょっとだけお洒落をして良い音楽を聴いて、美味しいワインを飲みながら初夏の空気にしばしまどろむ…。極上の時間、というのはこういうことをいうのだろうな。シャツにネクタイをキリッと締めた10代半ばの少年が、ワインを手にしている両親のそばで所在無げに(?)ジンジャーエールを飲んでいたのが、可愛かった。
ホテル周辺のカフェバーのテラス席は、どこもほぼ満席のにぎわいだ。今夜の休憩時間、ひっきりなしに開栓された高価なシャンパンといい、経済不況という言葉がどうもピンと来ない。
翌日23日。トーマス教会にバッハのモテットを聴きにいく日。午前中、繁華街のとあるお店に入った。ブラッド・ピットを甘口にしたような、ハンサムな店員さんが話しかけてくる。「何かありましたら、声をかけてくださいね」「ありがとう、今はまだ、絞込み中だけど…あとでよろしくお願いします」クリップのついた皮製のカードケースを見つけて手にとってみた。「そちらは、マグネットのものと、金属製のタイプのお作りがあるのですが、僕はマグネットじゃない方をお奨めします。マグネットのものだと磁気異常が起こりうると思うんですよ。今のところはそういったレポートはないのだけど」「なるほど!」「だから、こちらの金属製のタイプの方が、モア・ベターなのでは、と。あ、“モア・ベター”って言葉、おかしかったですね。ベターにモアつけちゃった!“ベター”なのでは、と」笑うとますます、“ブラピ”度が上がる。「それ、おもしろい!“モア・ベター”ね、私たち日本人もその間違い、しがちなんですよ」「日本かぁ。僕、中国語勉強しているんですけど、彼女は日本語を勉強中で…」
商談は一時中止して、すっかりおしゃべりモードに入る。「中国語って、難しいでしょう?」「いやいや、日本語に比べたら!日本語の難しさって半端じゃないですよ。ひらがな、漢字、カタカナ…三種類も文字があるなんて、とてもついていけないですよ」人懐こい彼は、自分の出身地のこと、一昨日21日は祝日だったので、その代わりに24日の日曜日はこの国のお店が通常営業することなど、いろいろ話してくれた。「じゃ、ここに住んでまだ2年目なのね。ライプツィヒ、すごく大きな街ですね。あの駅ときたら(笑)!ショックを受けちゃいました」「ですよね~。あの駅のショッピングモールにも、うちの店入っているんですよ。でも東京こそ、大都会じゃないですか。新宿、渋谷…いつか行ってみたいんです。で、あのすっごく複雑な高速道路を走って…自分の能力がどれほどのものか、試してみたいな」目がキラキラしている。お店を出るときには「じゃあね、ステファン!ありがとう」「ミナコも、いい旅をね!」と、名前で呼び合っていた。
昼食は、老舗“アウアー・バッハス・ケラー”でとることに。酢漬けの牛肉で野菜を巻いて、ことこと煮込んだこの地方の郷土料理と地ビールを頂いた。付け合せのまるいジャガイモのお団子も、もちもちとして美味しく、ボリュームたっぷりのお皿だったけど見た目以上に優しい味付けで、ぺろりと平らげてしまった。ゲーテゆかりのこのビアホフは、森鴎外もお気に入りの場所だったそうだ。
さて、そろそろ2時。トーマス教会のコンサートまであと一時間だ。レストランを出て、その場所に行ってみると、入り口にはすでに長蛇の列が。このコンサートは毎回、こんな大人気なのだそうだ。それもそのはず、2ユーロ(約270円)で聴けるのだもの。ライプツィヒの人たちが、羨ましい…。
パイプオルガンの音もさることながら、トーマス教会聖歌隊の少年たちの声が素晴らしい!まったく力みも濁りもない完全なハーモニーが、まるでパイプオルガンの響きのように柔らかく豊かに、教会を、そして聴衆を満たす…。休憩時間、隣の60代と思しきご婦人が声をかけてきた。「どこからいらしたの?こちらにはご旅行で?ライプツィヒは初めて?あなたは…クリスチャンでいらっしゃるの?」女性3人旅なのだそうだ。後半のモテットでは、聖歌隊に続いて会衆全員が歌う場所があって、プログラムにその楽譜と歌詞が書かれている。お隣のご夫人が時おり演奏中に、「いま、ここですよ」とばかりに、私が手にしているプログラムの歌詞の、現在の場所を指差して教えてくれた。
パイプオルガンの伴奏に聖歌隊が歌い、会衆全員が歌う。空気が響きあい、音が響きあう。音楽と人が、調和する…。まるで森の中に身をおいて、自然と自分とが一体になった時のような、深い安らぎを感じた。それは、昨夜のコンサートでも体験した、純度の高い調和のもたらす、真の心地よさだった。
リストも常連だったという世界最古のカフェ、“カフェ・バウム”に行く。上階はカフェ・ミュージアムにもなっていて、珍しいエスプレッソマシンなどが展示されていて、思った以上に楽しめた。さて、カフェである。これまた夢のように美味しそうな、かつ、巨大なトルテがショーケースにずらりと並んでいて、思わず目移りしてしまう。困った、決められない…。結局、お店の人にお薦めを聞いてオーダーした。ピスタチオ風味のスポンジ生地に甘酸っぱいマンゴーのムースがさっぱりとよく合って、日本の3~4倍サイズでも最後まで飽きることなく頂けた。本当に何を食べても飲んでも、ため息が出るほど美味しい!明日はいよいよ、この旅最後の都市ドレスデンへ発つ。
(てくてくあるきのドイツ日記⑥ に続く)