第426回 “楽しい”は“知りたい”の母
「あなたの、不幸が身につかないところが好きなんですよ」今朝、偶然見たテレビ番組で、故・遠藤周作さんが、20年以上前に収録された同じく作家の佐藤愛子さんとの対談の中で、こんなことをおっしゃっていました。さすがに言葉のプロ。思わずうなってしまうような、簡潔で印象的なフレーズです。
その佐藤さんは、最初の結婚は夫のモルヒネ中毒が原因で破綻し、二度目の夫との結婚後に会社が倒産。 莫大な借金を背負って、「借金から身を守るための偽装離婚」という夫の説得で離婚した、という波乱の人生を過ごされている方です。
小説家の父、女優の母、そして兄に有名な詩人サトウハチローさん、という、才能も個性も豊かな一族にうまれたことでも知られている佐藤さんは、番組の中で自らの著書『血脈』について、「不良一家である佐藤家について、もっと知りたくなった、というのがこれを書き始めたきっかけです。書いていくうちに、知りたい、ということは愛していたい、ということなのだ、ということに改めて気づきました」と、お話されていました。
『血脈』は、佐藤さんが10数年の歳月を費やして書き上げた大河小説、とは知っていましたが、まだ読んだことがありませんでした。“憤怒の作家”と呼ばれていたイメージが強かったのですが、しっとりとした着物姿でおだやかにお話されている佐藤さんの姿は、良い意味で力が抜け、歳を重ねるほどに無垢になっていかれているようにみえて、改めてステキだなぁ、と思いました。
そして、佐藤さんの“知りたい気持ちは愛する気持ち”、というお話に、ハッとしました。いつも感じていたことだったのです。何かを愛する気持ちとは、対象となるもの(あるいは人)にぞっこん惚れこんで、自分を見失うこととは間逆の、もっと自分に立ち返るような性質のこと…つまり、知りたい、理解したい、という興味に他ならないのではないかしら、と。
自分に関わりのあるもの、人について深く知ることによって、自分が少しずつ明確に見えてくるようになる…。自分が見えていれば、人はめったなことでは壊れません。「足るを知るもの、迷いなし(=自分が何ものなのか、何を求めていたいのかを分かっている者は、満たされて幸福である)」は、老子の格言でしたっけ。つまり、周囲に対する興味や感心は、ひいては自分を高めていく栄養になるのです。
愛の対極にあるのは、憎しみではなく無関心です、と言ったのはマザー・テレサでした。周囲を愛しましょう、と言われたらちょっと身構えてしまいますが、周囲に感心を持ちましょう、というのでしたら、誰にでもできることという気がします。そもそも愛することとは、別段、特別なことではなく、意外にシンプルなことなのかもしれません。
私が音楽に対して抱いているのもそんな感情ですし、生徒さんに対しても本質は同じ。彼らに関心を持って接していたいし、どんなことを求めているのか、何を気持ちいいと感じてくれるのか、を、知りたいと願っています。実際にはまだまだ修行がたりなくて、なかなかうまくいかない場面もあるのですが…。
先日、毎年関わっているとあるピアノコンクール課題曲についての講座が、福島で行なわれました。弾いて、歌って、踊って(!)、話して…二時間という時間の経つのがなんと速かったことでしょう。それもそのはず、そのどれも(弾く、歌う、踊る、話す)が、心底大好きなのです。でも、自分だけが楽しんでいるのでは目も当てられない…。ないアタマを懸命にひねって、構成を考え内容を練って…と、きちんと準備はするので、受講してくださった先生方から「楽しかった!」と、共感していただけると、何よりも嬉しいのです。
実はこの、楽しい、という感情こそが、知りたい、の前身で、人間を人間たらしめるものだと思っています。だって、動物にも人間に共通の食欲、睡眠欲はありますが、興味や趣味、探究を楽しみたい、という欲はないでしょう?
確かに、“知りたい”と“愛したい”は夫婦。でも、“楽しい”は“知りたい”の母だと思っています。もっと言うなら、“楽しい”は老いの対極にあるものなのではないでしょうか。
これは是非、楽しい、を味方につけなくてはソンソン!葉ずえの音、花の香り、夜空の星や子供たちの笑い声…幸せなことに、周囲を見渡せばいくらでも楽しさのネタは転がっています。