第422回 あるかないか…それが問題

携帯電話のアラームに代わって、このところほとんど毎朝、鶯が私を起こしてくれています。(あら?正確には、“鶯が”ではなく、“鶯の声”が、と書かなくてはおかしいですね。今、この冒頭の文章を書きながら、鶯が枕元に立って、つん、つん、とおでこをつっついて起こしてくれる…という摩訶不思議な光景が目に浮かび、ひとりで笑ってしまいました)。「ホ~…」で始まる、あの有名な鶯の鳴き声。彼らはあの見事なクレッシェンドを、何かの意味があってしているのでしょうか。

いきなり「ヂリリリりッ!」と寝ている人間に襲い掛かるようにけたたましく鳴る、伝統的な(?)目覚まし時計のアラーム音が苦手です。心地よい夢から覚めるだけでも充分残念なことなのに、何故、驚きとともに目覚めなければ…いえいえ、下手をすると、目覚めと同時にその唐突な爆音に怯えなければならないのでしょう。哀しすぎます。

その点、鶯のモーニングコールは「ホ~」と、遠慮がちに小さな音量から始まって、その、最初の「ホ~」を音を伸ばしながら徐々に声のボリュームを上げ、こちらがふと、目覚めるくらいのタイミングに「…ホケキョッ!」なんて可愛らしく語尾をまとめる…。う~む、素晴らしい。なんてオツで気のきいた、理想的なモーニングコールなのでしょう。

日本人は鶯のような美しい鳥の声だけでなく、虫の声の風情をも愛する、世界的にはちょっと珍しい民族です。元来、音に敏感な人たちなのかもしれません。でも、私たちが音を愛でている時、実は、鳴っている音と同じように味わっている、もう一つの大切な要素があります。それは音のない時間…“間”です。

音のない時間があるから、次の音が一段と新鮮に響くし、その“間”を感じることから、いっそう表情豊かな音楽的瞬間が生まれる…。音楽を学ぶ人たちは、いつもそんなことと向き合っています。休符のところというのは、そこに音や音楽が“ない”のではなく、音のない、音楽的な状態に“ある”、という、ことになります。ちょっとインド哲学的な発想です。

休暇も同じように考えることができます。それは“特にやることがない時間”、ではなく、“特にやることがない、という、いつもとは違った貴重な時間がある”、と考えて過ごすとよりリフレッシュできるし、改めて仕事に感謝しながら、取り組むことができるようになる気がします。

話がそれてしまいました。演奏しながら、音のない時間(休符)をきちんと感じているのとそうでないのとでは、不思議なほどに、まったくその次の音が違ってきます。音を丁寧に奏でる、ということは、音のない時間をきちんと感じることと、とても深い関係があるのです。

この、“感”じたり“念”じたり、“意識”を持ったり…という、様々な“気”の成分のようなものが反映されたとき、その音は音楽になります。鶯の声はとても美しく、変化にも富んでいて音楽的な素材ではありますが、そのままでは“音楽”そのものではないのです。すると、理屈としては、人間が鶯の声を何らかの意図をもって手を加え、編集したり組み立てたりすると、それは音楽になりうる、ということになるのですが、果たしてそうしてできた“音楽”が、自然の声そのままの“音”よりも必ずよいものか、というと、難しいところです。

またまた話がそれてしまいました。

冬という、寒くて花の少ない季節を経てきたから、春になって暖かくなり、次々に花が咲くのが嬉しくなるし、その花がやがて枯れてしまうのが分かっているから、咲いている花への愛しさが増す。暖かさが“ない”季節の経験から、暖かさが“ある”ことが感じられるし、その命がやがて“なく”なることが分かっているから、命が“ある”時間に感謝したくなる。to be or not to be…インド哲学には『音楽とは、打つ音(ある音)と打たざる音(ない音)の間にあるものである』という定義があるそうですが、“ある”か“ない”かは、音楽にとってだけでなく、人間にとっても大切なテーマなのです。

地球の公転や自転、月の満ち欠けによる、季節や時間というリズム。産まれてから、ずっと三拍子を打ち続けている、心臓の鼓動。自然の中の“音”やら、音のない“間”。私たちの日常は、案外、とても音楽的なものに満ちているのかもしれません。

ところで…。先日「うちの近所は自然が豊かで、この頃朝は鶯の声で目覚めるのよ」と、ある友人に自慢したら「ふ~ん。鶯よりも優しく起こしてくれる恋人は、いないの?」ですって。もう、余計なお世話です。誰にだって、必ず春は来る!(…とは限らない?)

2009年04月03日

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