第420回 バターとおこげ
かつては、某大手製粉会社(Nで始まる、皇室ゆかりの方の会社の方です。ちなみに、名前が似ている“N食品”とはまったく関係ありません)に勤め、社内結婚した両親です。母は結婚を期に退社しましたが、家には当然のごとく、常にN製粉のパスタやそうめんなどの麺類やら、ホットケーキミックスやらパンケーキミックス、という類の製品がありました。
家族がゆっくりと時間をかけて食べられる日曜日の朝食には、よくホットケーキやパンケーキが並んだのですが、私はホットケーキ以上にパンケーキが大好きだったのですが、パンケーキはめったに登場しないのです。それだけに、パンケーキの時には飛び跳ねて喜びました。後にパンケーキの国ハンガリー(ハンガリーでは、パラチンタといいます)に行くことになったのも、何かの因果かもしれません。
もちろん、ホットケーキも大好物です。バターとシロップをたっぷりかけて、口にほお張った時の至福ときたら…!うう、思い出したら食べたくなってきてしまいました。そもそも、小さいときの私は大の“バターホリック(バター中毒)”。バターの味が大好きで、母が料理中にバターを使っているところに擦り寄って、「ママ、バターちょっとだけ、食べてもいい?」とおずおずおねだりする、変な子供でした(勝率は、ほぼ五割ほど。“勝ち”の時は、母がバターの角をほんの少しだけ削って与えてくれました)。
ホワイトソースや野菜のグラッセ、もちろん、焼き菓子やバタークリームのケーキなどなど…バターの香りが漂うものは例外なく大好きでしたし、私にとって脂のイメージは、まずバターだったのです。だから、「脂っこい(=バターっぽい)ものはいや」、とか「脂っこく(=バターっぽく)なくて美味しい」というフレーズが理解できませんでした。「どうして脂っこいのがよくないなの?脂っこくなかったら、美味しくないのに!」という方でした。
そんなバターの欠点は、マーガリンよりもお高いこと。毎日の朝食のトーストには使うことが許されず、普段はマーガリンで手を打っているのですが、その風味の差には、大きいものがあります。つい、週の途中でバターの味が恋しくなってしまうのは、そこからきているのです。それが、ホットケーキやパンケーキの時は大手を振ってバターを使える…。これはなんとも、幸福、かつ爽快なことで、私にとって日曜日の朝食は、お出かけに匹敵する楽しみでした。
バターというと、高カロリーとか動物性の脂質、という負のイメージを持たれてしまいがちですが、個人的にはそれは違うと信じています。実際に、カロリーを比べてみてください。例えばサラダオイルやオリーブオイルは100gあたり920カロリーですが、同量のバターなら745カロリー。二割ほども低いのです。しかも、風味が豊かなので料理法によっては、油の分量を減らすことができます。つまり、カロリーを考えるなら、むしろバターでカロリーカットが出来てしまうのです。バターはえらいのです。第一、動物性の脂がいけないなんて、動物に失礼な話です。そもそも私たちは豚や牛のお肉の脂身は、ベーコンにしても霜降り肉にしても、大歓迎で食べますし、脂の入り方でお肉の美味しさが決まることを知っているはず。そんな私たちがバターには目くじらたてるなんて、考えてみたらおかしな話です。
最近は、マクロビオティックとか、アレルギー対策とか、体に優しい食材を…などの理由で、動物性の食材の摂取を控える食生活も流行っているようですが、生きとし生けるもの、お互いが働きあって、お互いを生かしあうほうが自然だと思うのです。人間が気にしなければならないのは、体の健康だけではありません。なんとなくですが、動物性の栄養は、身体だけでなく、心の栄養にも関係しているような気がしてならないのです。
おっといけない、バターの話になると、つい熱くなってしまいます。さて、母は粉の混ぜ方も焼き方も上手で、たいていはふっくらと焼き上げるのですが、なるべく家族を待たせないように他の仕込みをしつつ、二つのコンロを使って二つのフライパンで同時進行で焼くので、たまに焼きすぎてしまうことがあるのです。
ここで、バターと並ぶ二大好物、“焦げ”の登場です。“焦げ”こそ、バターに勝るとも劣らない香りと旨みのきわみ。
考えてみたら、釜めしのおこげだけでなくデミグラスソースもオニオングラタンスープも、カレーもカラメルも、すべて焦げの旨みが鍵です。野菜や砂糖を丁寧に焦がしてそれを旨みにするなんて、素晴らしい技ではありませんか。焦げはえらいのです。そんな焦げを、「おこげ」と尊敬語で呼ぶ私たち日本人は、類まれなる、感覚に優れた民族なのかもしれません。
だから、「あ、焦げちゃった」という母の声が聞こえてくると、待ってましたとばかりに「私、それ食べる!」と、叫んで、その愛しの“おこげさま”をお迎えに、コンロに飛んでいきました。かくして私は、バターとおこげ、という二つの好物を手に入れて、ひとりほくそ笑んでいたのでした。母は最近まで、そんな私を「なんて健気な、優しい子でしょう」と思っていたそうなのですが、そうではなく、単にいやしんぼうで、心底焦げが好きだったからだと知って、母の思いは打ち砕かれてしまいました。バターもおこげもえらいのに、私はなんて親不孝なのでしょう。
ところで、皇室と言えば、日本と違って英国は皇室が私有財産を自ら管理し、投資して事業を行なっていますが、チャールズ皇太子が1990年に始めた、ダッキーオリジナルという自然食品のブランドがあります。チャールズ皇太子は有機農法に対する信念をもっていらして、公領農場をもち、そこで有機栽培された小麦粉に、添加物を使わないドライフルーツなどを混ぜて焼いたクッキーがよく知られていますが、バターの風味が豊かなショートブレッドも大好きです。奇しくも、日本も英国も、皇室ゆかりの方が小麦に関わるビジネスをしているのですね。