第418回 不完全の美
前回、我が家のテディ・ベア、ヴィルヘルム君のお話をしました。実は、もうひとり、とても心強いナイトがいるのです。彼の名はエドワード。初めてロンドンに行ったときに、リバティで見つけて一目ぼれした、全長17~8センチほどの犬の縫いぐるみです。リバティは“リバティ・プリント”の由来になっていることでも名高い、格調高いチューダー王朝風の建築様式をもつ老舗。なんでも、二隻の船を解体した木材を利用して作られたのだそうです。店内には歴史と木のぬくもりが感じられ、路上に面したフラワー・ショップのコーナーの花々も素晴らしく、英国ならではのセンスが堪能できる空間になっていて、大好きな場所です。
さて、我がエドワード君は伝統的なリバティ・プリントの肌と青い眼、そして皮の首輪をもち、胴体には綿ではなくお米のようなものが入っていて、もちろん手縫い。手足にもお米が入っているので自立はできず、どこに置いてもくったりとお腹のあたりにシワを作ってしまいます。もう来日して15年ほどになるので、かつてはサテンのように美しく輝いていたその肌も今ではすっかり色褪せ、ブルーの眼もずいぶん曇ってきてしまいましたが、欠点があればあるだけ、愛おしさは増すばかりです。
白洲正子さんが著書の中で、骨董(道具)はしまい込まず、毎日のように使いたおしてこそ、良さがでてくるものだとおっしゃっていました。毎日のことなので、そうそう丁寧に扱うというわけにもいかず、つい傷がついたり剥げたりするけれど、道具はそこまでかかわっていかないと自分のものにならない、と。そうして長年かかわってこそ、味わいや良さが増すというのは物に限ったことではなく、人間関係(家族)も、芸も、共通なのだという気がします。
スペインはグラナダのアルハンブラ宮殿を訪れた時に、現地の方にこんな話を聞きました。「イスラムの世界では、完全なものを作ることを良しとしない風潮があります。この世で完全なるものは、アラーの神だけだ、という考えからです。人間が作るものには、欠点や欠陥があって然るべき。だから、織物も建造物も、あえて目立たないようなところにほつれやゆがみを作り、神への謙譲の気持ちを示しているのです。」
宗教的観点からとは異なりますが、清少納言も“月は満月よりも、幾分欠けているほうが風情がある”と書いていたし、兼好法師も“螺鈿(らでん)は少し剥げ落ちたところに風情がある”といって、不完全の美を愛しました。そういえば、絵画の中のビーナスも下っ腹がふくよかで、ややメタボリックな景色になっていますが、見る人になんとも深い母性を連想させます。それは時代による美の価値観の違いである、というだけではない、もっと普遍的なところからくる感覚のような気がします。だって、もしもビーナスがスーパーモデルのように完全なプロポーションをしていたら、人々は果たしてそこに、女性の豊かさ、優しさ、温かさを感じたでしょうか。
では、美しさ、良さとは何なのでしょう?どうやらそれは、完全さ、というところにはないようです。でも、完全さを目指して精進するのが向上心であるはずなのに、人はそうでないところに惹かれるというのは、どういうことなのでしょう?
「君の作品には、窓がない。」何気なく手に取った雑誌の中のこんな言葉に、ふと、目を奪われました。それまでの自分は、完成度の高い、人の目をひく作品を手がけていたのだけど、彫刻の師匠にこういわれて、我に帰りました、と、その気鋭の陶芸家は語ります。「(自分の中で完結してしまって)見る人が入り込む余地がない、というか…」それからは、料理を引き立てるような皿だったり、場を和ませるような急須や茶碗を…という具合に、だんだん作風が変わってきたのだそうです。
白洲さんが、長善さんという茶人のお手前を受けた時のエピソードは、とても楽しいものでした。そこには堅苦しいところがみじんもなく、型をふまえつつも型というものを超越してしまっていて、紹鴎や利休の茶はこういうものであったに違いない、と思わせるようなものだったそうです。途中の「あ、忘れてしもた。こっちが先か、あっちが後だったのか、まぁ、どうでもええわ。おいしく飲んでくだされば、ね」という一幕を、“私がお茶のことをあんまり知らないので、(あえて)楽な気持ちにさせてくださったのかもしれない”と、振り返り、“わび・さびについて、とかく誰でもむつしいことをいいがちだが、むつかしい理屈をこねている間はまだ真物とはいえまい。この老人のように、無為無色の境地に遊んでいるのが、禅のさとりに共通する茶道の極意といえるのではあるまいか”(『雨滴抄』世界文化社)。
本当の完全さは、不完全さの中にこそある?いいえ、不完全とか完全という観念自体が、そもそも意味のないものなのかもしれません。
「まぁ、どうでもええわ。おいしく飲んでくだされば、ね」長善さんのこのひと言に、究極のおもてなしの心や、型から離れる難しさを越えてこその楽しみ、相手不在の自己表現の無意味さ…など、その道を極めることの厳しさが感じられて、背筋のあたりがゾクッとしたのでした。