第417回 縫いぐるみの顔のナゾ

   美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない。

小林秀雄さんが、著書『当麻』という作品の中で、世阿弥のいう“花”についてこんなことを書いていらっしゃいます。色々な解釈ができそうですが、「花」を他の様々な言葉に置き換えることもできるフレーズのように思います。「音楽」「物」そして「景色」。

美しさ、と言ってしまうと、それはもはや感性でも実感でもなく、理論や定義になってしまい、その本質から遠ざかるばかりである、というのが彼の言わんとすることなのではないでしょうか。例えば、音楽の美しさが理解できますか、と問われたら?…理解できる、と答えようにも、それはあくまでも自己の基準の中のことでしかなく、そもそも意味のあることではないような気がしてきて、返答に困りそうです。でも、美しい音楽は、間違いなく存在しているのであって…。それを美しいと感じるか、あるいはどう、美しいと感じるかに、正解、不正解も、理論や定義もないのです。

美しさに限ったことではありません。楽しさも苦しさ、豊かさ、貧しさもきっとそうなのです。例えば、“豊かな「人生」がある。「人生」の豊かさといふ様なものはない”。…それを声に出して言ってみたら、ふと良寛さんのことが思い浮かびました。

檀家仏教に決別し、一生寺を寺を持たずに越後各地の空庵を転々とし、托鉢しながら9年の年月を過ごす、という生き方を選んだ良寛和尚。飄々とした書や、僧侶なのにお酒が大好きだったこと、そして、子供たちとの心温まる逸話が連想されますが、父親は入水自殺によって亡くなっていて、晩年は孤独と清貧の中で人生を送った人でもあります。一般的に考えられる、経済的にも物質的にも安定した“豊かさ”に恵まれた人生とは言えないかもしれませんが、それでも(それゆえに?)、誰よりも“豊かな”人生を全うした人です。

理論、定義には意味がない、ということではなく、それをそれをきちんと踏まえながら、一方で如何に心を解放できるか、ということが大切なのだと思うのです。「様式感に“捉われる”のではなく、それらを“踏まえて”音楽を表現しましょう」と、生徒さんにはレッスンでお話するのですが、言うは易し。なかなか実際に行なうのは難しいことです。

最近、バッハを弾いて、彼の音楽に、揺るぎない様式感・構築性と、自由度の高い即興性の両方が、幸福に共存していることに気づくことが改めて増えています。緻密な対位法の技法だけではなく、刺激に満ちた響き、リズムの遊び、主題の自由な取り扱われかた、美しい旋律…。それらが有機的に結びついて、見事な“調和”をなしているのを聴くと、なんだか「ほら、なかなか面白いでしょう?まずは、あなたが思ったように、好きなように弾いてごらんなさい。」と、諭してもらっているような気持ちになるのです。

よいものには、いつもそんな一面があるような気がします。つまり、「これでどうだ!」という強い主張がありつつも、受け手がその個性を自由に楽しめるような大らかさが…。例えば、身近なところでは、私の愛器ベーゼンドルファーです。スタインウェイ以上に個性的な音色やアクションをもちながら、弾き手の要望にはとことん付き合ってくれるような柔軟性があって、私はいつもそれに教えられ、助けられています。

ところで。実は、縫いぐるみやお人形が苦手です。そういった人形たちは単なる“もの”ではなく、本来命あるものの代用品、という気がして、扱いに困ってしまうのです(あまり可愛がらないでぞんざいな扱いをしたら、バチが当たりそうなんですもの…)。でも、ドイツのお土産に母が買ってきてくれた、シュタイフ社(*本社は南ドイツの町ギンゲンで、創業は1880年。世界で初めて縫いぐるみを作ったメーカーとのこと)のテディ・ベアのヴィルヘルム君は、別です。レッスン室にいるので毎日顔を見るのですが、いつもきょとんとあどけない表情で、気持ちを和ませてくれて、しかも年々愛らしさが増しているような気さえします。

これも、よいもの特有の“柔軟性”?まぁ、間違いなく、私の気のせいなのでしょうけれど…。何かの拍子にそれをとある友人に話したら、「そうよ、知らなかった?縫いぐるみや人形って、可愛がっていると顔が変わってくるんだから!」と、鬼の首でもとったように得意げに、言われてしまいました。え~?本当なのかしら。だとしたら、やっぱりお人形は怖い…!?

2009年02月26日

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