第416回 水ゆるむ早春
実家のお風呂には、ラジオがあります。夜もどっぷり更けた頃、湯船につかりながらラジオを聞くのはなんともいい気分で、東京から仙台への移動やレッスンなど、一日の疲れがじんわり癒されるのを感じます。
先日は、ラジオ深夜便の『ラジオ歳時記』というコーナーで、俳人の鷹羽狩行さんがこの季節の俳句を紹介していました。亡くなった祖母が晩年俳句を嗜んでいたことを思いだしながら、「2月の季語は少ないものの、春告げ草の“梅”、春告げ鳥の“鶯”という、二つの一級季語がそこには含まれている特別な時期でもあるのですよ」というお話に耳を傾けました。
番組の中で、鷹羽さんは素敵な如月の俳句をいくつか紹介してくださいました。まだまだ仙台は雪が降るような寒さでしたが、気持ちのよい温度のお湯の中でぬくぬくしながら春の句をじっくり味わえて、お風呂の時間が一気に至福のひとときになりました。中でも印象に残った句は、与謝蕪村による次のものでした。
鶯の 枝踏みはずす 初音かな
鶯は警戒心が強く、よく声は聞こえてもその姿は滅多に人に見られることのない鳥です。きっと蕪村は鶯の鳴き声がふいに途絶えたのを聞いて、「おや、この鶯は初鳴きに気合が入りすぎて、うっかり足を枝から踏み外してしまったのかもしれないな」と、想像してこの句を読んだのではないか、というお話でした。
実は、この句をアンカーの宇田川さんが読んだ時、私は反対のことを想像したのです。鶯の初鳴きは、まだこなれていなくて、なんだか「ホ~…ホケキョッ」の間合いや滑舌(かつぜつ)がピタッときまらないイメージがあるのです(実際、外を歩いていて、何度かそんなあまり上手ではない鶯の鳴き声を聞いたことがあります)。鶯が枝を踏み外した(かもしれない)のは、気合が入りすぎたからではなく、「どれ、そろそろかな」と思って鳴いてみたものの、春先の暖かな、穏やかな空気にぼんやりして、ただうっかりと足を踏み外したのかな、と…。つまり、私はこの句に、ぴりぴりとした緊張感よりも、ほんのりと緩んだ春ののどかさ、その中でずっこけた鶯の可愛らしいさ…を感じたのです。
もしかしたら、蕪村のその句の前に、佐治英子さんという俳人の方のこのような句を聞いたことも、潜在的に影響していたのかもしれません。
紅梅を 映してゆるむ 水の張り
紅色という色味に、惚れこんでいた時期がありました。小学校低学年の頃です。たまたま頂いた24色の色鉛筆にその色が入っていた、というのがその色との出会いでした(当時、24色の色鉛筆の中には、一般的に紅色という色が含まれていたようです)。赤でも朱でもない、たおやかなその色味には、赤とは明らかに違う深さ、気品、強さ、そしてまさに、独特の“色気”が感じられて、たちまちお気に入りの色になりました。そして、同類を求めて、周囲の友人に「ねぇ、何色が一番好き?」と、聞いてまわりました。「赤」とか「ピンク」、あるいは「オレンジ」という答えはありましたが、「紅色」といわれたことは一度もありませんでした。
慣用的に、“赤白”は“紅白”です。本来、日本の“あか”は、赤ではなく、紅、なのではないのかしら?…紅梅の紅色にも、桜の花の色以上に日本らしい色、という印象を抱いていました。ピンクよりも強く、赤よりも柔らかい紅のしなやかな色味は、今も大好きです。
少し前まで氷を張っていたかもしれないその水も、美しい梅の花の色に思わず(?)、水温ばかりか表情まで和らげているようだ、というこの句には、やはり白い梅ではなく紅い梅がふさわしい…。水ゆるむ、という優しい響きや、色に対する、女性ならではの柔らかな感性も垣間見えて、湯船のなかで「う~ん…」と、ひとり、うなってしまいました。
そんな、ほんわりとした気分の中で先ほどの蕪村の句を聞いたので、なんとなく緊張感をイメージしなかったのかもしれません。
どちらにしても、どんな解釈が正しいのか、適正であのるか、などということについて考えるのは、まったくその楽しみとは関係のない、野暮なことなのでしょう。むしろ、如何様にも解釈できることが、俳句の大きな特性のひとつなのかもしれません。限られた字数の中に季節、空気感、作者の目線や感性が凝縮し、絵画的にも音声的にも楽しむことができ、そして何よりもそこからの解釈や想像は無限、という俳句の世界感に、改めて大きな魅力を感じました。
蕪村や芭蕉のいた頃、庶民にとって、気持ちを和ませ、楽しませてくれるものの存在は、生活を安定させてくれるものの存在にも増して大切だったのかもしれません。そういえば最近、健康法にあれこれ気を使うよりも、好きなものを好きなように食べ、好きなことをして楽しく生きている人の方が長生きできる、という学説も発表されたとか。人間はもっと、感覚に遊びながら生きていってもいいのかもしれません。