第379回 星になりたい

先日訪れた山形県置賜郡の浜田広介記念館で、彼の作品集をお土産に買って帰りました。代表作の『泣いた赤おに』や『りゅうの目になみだ』を含む23の短編童話が収められている本です。

すべてを読んでみると、鬼やりゅうのような架空の動物、もうろくしてしまったおばあさんや死が近づいているおじいさん、きつねやトカゲ、むく鳥などの生き物や、さらにはお皿やランプ、花びらやお地蔵様、星や神さま(!)に至るまで、身のまわりのあらゆる存在が作品に生き生きとした姿で登場していることに、新鮮な感動を覚えました。

中でも、印象に残ったのは『こがねのいなたば』。そして『ひとつのねがい』という、比較的知られていない(?)二つの作品です。

広介が童話作家になるきっかけになった作品『こがねのいなたば』は、老いた馬をいたわる心優しいお百姓さんと、そのお百姓さんを思う馬の物語です。その最期が近づいたとき、馬は自分の体をお百姓さんに自分の体を叩いてくださいといいます。お百姓さんが、お前の体をいっそうわるくしてしまうよ、そんなことはできない、といってもききません。ついにお百姓さんが細くて弱い葦でそっと叩くと、馬の体から次々に子馬が産まれてくるのでした。馬は言います「ご主人様にこれまで、もしも、無理やりにおい使われて、ぶたれてばかりいましたなら、とっくのむかしにちからはぬけてしまって、一とうもうまれなかったでございましょう」。子馬はみるみる大きくなって、畑から黄金の稲たばを運んできました、というお話。

『ひとつのねがい』の主人公は、よぼよぼに痩せてしまった、町外れに立つ一本の街灯です。彼は、まもなく倒れてしまう自分の運命をあれこれ考えるのです。「年をとってたおれることは、この、おれひとりじゃない。しかたのないことだ」でも、あきらめようとすればするほど、一度でいいから星のような明りくらいになってみたい、と願うようになるのです。その願いをいつかかなえようと、懸命に雨風にこらえる街灯ですが、現実にはなかなかその夢をかなえられず、葛藤します。やがてある日、かなしみの涙といっしょに、静かな気持ちがでてきました。「もうこれでかまわない。星のようにみえなくても、ただだまってひかっているのがおれのつとめなのだ。このままでおわってしまっても、それでよいのだ。」ところが、ある嵐の夜に…。

彼の作品はどれも、西洋のお伽噺にしばしば見られる“悪玉を善玉がこらしめる”という『勧善徴悪』の図式とは一線を画しています。そして、自然や動物たちとの共存し、互いに尊重しあうことの大切さについて、あるいは生命の尊厳、自己犠牲とは何か…など、作品ごとに様々なテーマが見え隠れします。何度も読み返してみると、今度は彼の語調がまるで詩のように音楽的なことに気づいて、改めてその魅力に惹きつけられるのです(実際、彼は執筆中に言葉を口に出しながら書くことが多かったそうです)。「日本のアンデルセン」と賞される広介ですが、あるいはアンデルセンを凌ぐ素晴らしさもあるのではないでしょうか。

宮沢賢治の『よだかの星』やサン・テグジュペリの『星の王子様』もそうですが、ひたむきに生きたもののたましいが星になる、という結末には、宗教や教訓を超えた、普遍的な夢やイマジネーションを感じます。しかも、その目線は決して読み手である子供の上にあるのではなく、同じ高さにあるような気がします。

大人と子供、書き手と読み手(聞き手)、雇用する側とされる側、そして教える人と学ぶ人…。もちろん、社会的な立場や発生する責任の大きさに違いはありますが、双方が同サイドに並びお互いを認め合って、目線の高さを同じくして「これは本当に、そうですね!」と心から共感できることこそが、人間の健全な幸福感なのではないのかな、と思ったりするのです。

ところで、クラシック音楽で「星」というタイトルをもつ作品は、意外に少ないようです…が、最近デュパルクという作曲家の『星たちへ…』という、管弦楽のための美しい曲を知りました。それを作曲者自身がピアノソロ用に編曲した楽譜を、お世話になっているキングインターナショナルのディレクターの方が送って下さったのです。とても素敵な小品なので、いつかどこかで弾きたいものだ、と夢みています。あ、そういえば『星の王子様』の作者サン・テグジュペリも、『星たちへ…』のデュパルクもフランス人。むむ、やはりフランスには何かある…?(参照:『ピアニストのひとり言』第378回“月の光とUFOと”)

2008年05月02日

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