第377回 大作曲家の肖像
この四月から、『クラシックを愉しむ会』というタイトルの大人の方のための音楽塾が始まりました。
会場は地元で人気のイタリアンレストラン。オーナーさんが、毎回この音楽塾のためにしてくださる店内セッティングのおかげで、“塾”というにはもったいないようないい雰囲気のなかでさせていただいています。毎回のテーマにそって、作曲家の横顔や作品誕生の裏話、あるいは音楽の様式感や歴史的背景などを、むずかしいことは抜きにして、でもちょっと突っ込んだ部分にも触れながら…そしてCDなどの音源を聴いていただきながらお話していく、という欲張りな(?)内容。塾生さんからの質問をいただきながら、和気藹々とした雰囲気で、あっというまのひと時を過ごしています。90分の講義(漫談?)のあとはティータイム。まだ二回目を終えたばかりですが、この時間がとても楽しみで「あと10回でおしまいなの?」と思うと、今から寂しくなってしまうのです。
そんな、講義の後のおしゃべりタイムに「クラシックって本当はこんなに楽しいのに、どうして堅苦しいイメージになってしまうんでしょうね」という話題がもちあがりました。私もいつも疑問に感じていることです。とっつきにくい、とか崇高な、とか難しそう、とか…。本当はCMや効果音、バックミュージックなどで接しない日はないほどに親しんでいるものなのに、クラシック音楽というだけで敷居の高いイメージをもたれてしまいがちなのはどうしてでしょう。小学校や中学校での音楽の授業が、今ひとつ魅力に欠くから?長い曲を、じっと静かに聞かなくてはならないから?…そんな話の中、ある塾生さんがふと「あの、音楽室のいかめしい肖像画がいけないのではないかしら」とおっしゃいました。
「ほら、もう退色して古びた感じになってしまっている音楽家の肖像画が、音楽室に何枚も必ず貼ってありましたよね。今もあるのかしら?ベートーヴェンが睨んでいるような絵だったり、すごいカツラ頭のバッハだったり…。音楽室にいると、恐そうな何人もの音楽家の肖像画に、終始にらまれている感じがしたような記憶があるんです。子供の頃にあの絵のイメージから入ったら、その音楽家の時代も存在も、親しみのわかない、なんだかかけ離れた世界のもの、という感じがしてしまうのではないでしょうか」その話に一同「なるほど、確かに…!」。
イメージ(印象)は大切ですが、これが意外にくせ者なのではないでしょうか。レッスンでも、曲の解釈や表現においてしばしば感じることなのですが、イメージが偏見に結びついてしまうと厄介ですし、物事の捉え方が広がる種類のイメージならいいのですが、逆に狭めてしまうケースもあると思うのです。
ですから、曲と向き合う時には、矛盾しているようですが「イメージを固めてしまう前に、相手をよく知ろうとすること」と「イメージに遊びながら相手とむきあうこと」の両方をいつも心がけるようにしています。これがなかなか思うようにいかないのですが。
おっとっと、話がそれてしまいました。肖像画の話に軌道修正しましょう。もちろん音楽室の“彼ら”は一人残らず素晴らしい音楽家ですが、聖人君子というわけではありません。失恋にやけっぱちになったり、自分の作品に対する周囲の不理解に苦悩したり、つい報酬金にこだわってしまったり…。特別な才能に恵まれながらも普通の感覚をもっている人たちが、正直に生きぬきながら妥協することなく作曲活動という仕事と向き合ったからこそ、時代を超えて皆の心に響く音楽を書くことができたのだと思います。
以前は、演奏を通してそんな彼らの“作品”の素晴らしさを共感できれば本望だと考えていましたが、最近では、大作曲家たちのように、自分の感性を信じてまっすぐに“生きること”の素晴らしさをお伝えできるようになりたい、と思うようになってきました。
そしてその願いは、演奏に対してだけでなく、レッスンや講座にも共通するものになってきています。音楽塾の塾生さんはみなさん人生の先輩で、素敵な方ばかり。若輩者の私がどのくらいお役に立てるものかはわかりませんが、皆さんとご一緒に音楽を聴いたり、おしゃべりをすることを通して、とてもいい時間をいただいていることは確かです。