第374回 日かげの桜
この時期のお散歩は、本当に気持ちのいいものです。昨日、歩きながらいつのまにかほんわかと笑みが浮かんでいるのに気づいて、つい、歩きながら自問自答してみました。
Q.どんなときに幸せを感じる?
A.子供の無邪気な笑顔やきらきらした瞳にふれたとき。山々の美しい姿に惚れ惚れとしたり、木々の愛らしいつぼみを見つけたとき。風がよいにおいを運んできたのをかいだとき。美味しいものを食べたり、楽しい会話がはずんだりして、ふと誰かと微笑みあったとき。葉ずえの音や波の音、鳥のさえずり、あるいはそれを思わせるような素敵な音楽を聴いたとき。一日の最後に、ふわふわで温かい布団にくるまって電気を消すとき、などなど。
Q.では反対に、辛いなあ、と感じるときは?
A.人が誰かの非難をしているのを聞いたとき。無関心な視線を感じたとき。親しく思っていた存在が、遠くにいってしまったのを感じたとき。
この頃、愛らしい鳥のさえずりで目が覚めます。沈丁花の香りを楽しみながら小路を歩いたり、桜の木の下でお弁当を広げている親子を見るにつけ、豊かな気候の変化をもつ美しくも平和なこの地で生きていることに、改めて感謝したくなります。同時に、人間の求める幸せというものは実はとても慎ましやかでささやかなものなのだ、ということに気づいて、ホッとしたりもするのです。
それだけに、平和の象徴のようなオリンピアの祭典が、人々の、というよりもそれぞれの国家の主張の対立による争いによって暗い影を落とされていることには、心の痛みを感じずにいられません。心豊かに、穏やかに暮らしていくことを願わない人はいないことを思うと、争いごとが国家単位で起こるなんて、本来はありえないような気がします。それでも実際には、人間の歴史において戦争がなくなることが決してないのはなぜなのでしょう。…それは、戦争が国家にもたらす利権や、限られた上層部の人たちの偏った思惑が絡んでいるからだ、と考えてしまうのは、間違った見方でしょうか。
自分の国がまったく不当な争いに力なく巻き込まれてしまっていることに憤りを感じて、行動をおこした芸術家は少なくありません。バルトークは当時のハンガリーの状況に絶望を感じ、生涯をかけて追及しようとあれほどまでに情熱を傾けていた民族音楽の研究も断念してアメリカに渡りました。カザルスはフランコ政権下に歪められたこの国では演奏活動はやらない、と、自らが祖国で音楽家として生きることをボイコットする、という激しい抵抗を示してフランス側のピレネーの山奥、プラドに引っ込んでしまいました。
作曲家の創造的な行為とは違って、演奏家は先人の残した作品を、譜面を通して人々に届ける伝道師のような職業です。例えば、聖書という一つの経典について説いても、神父さん(あるいは牧師さん)によってその解釈や説法が微妙に異なるように、同一の作品も伝える演奏家によって異なる表現になります。
この頃、自分がそれらの作品を通して本当に伝えたいメッセージとは、何なのだろう、とよく考えます。もちろん、作品そのものの個性やその音楽の本質であることには違いないのですが、曲の解釈とか表現法とかとは違う次元の、音楽家としてもっともっと探求し続けていなくてはならない“肝心”なところ―――実はそれこそが芸術の本質、であるというほどに大切な―――が、他にあるように思われてならないのです。
大方の桜はとっくに開花して、誇らしげに春を謳歌している一方で、すぐ近くなのに日陰になっているがために遅れをとっている桜の木もあります。でもそんな日かげの桜のつぼみも、ついに花開く瞬間を迎えようとしているのを見て、なんだか背中を押されているような気持ちになっています。