第369回 至福のチーズ選び

その日立ち寄ったチーズ屋さんには、フランスの個性豊かなフォルミエ(農家)チーズやスペインの羊のチーズ、見るからに食べごろのブリー・ド・モーなどが、ところ狭しと並んでいました。この中から、一つだけを選ばなければならないなんて、あまりにも酷です。でも、仕方ない。この数ヶ月、エンゲル係数が上昇傾向なので「一つだけ!」と、心に決めていました。

真剣にあれこれ目移りしていたら、ふと見たことのない茶色いウォッシュタイプのチーズに目が留まりました。表記を見ると“カルバドス…”という文字が。「あら?これは、カルバドス(りんごのブランデー)でウォッシュをかけて熟成させたものなんですか?」「そうなんですよ。フランスのノルマンディー地方のチーズです。」「なるほど、ノルマンディーはリンゴとカルバドスの名産地ですもんね~。おいしそう…」「ちょっと食べてみます?お酒は大丈夫ですか?」「はい、まったく大丈夫です」

黒い帽子を小粋にかぶった売り場のギャルソンはラップフィルムを丁寧に剥がし、楊枝で器用にそのチーズのとろとろした側面をこそいで、はい、と手渡してくれました。「むむ!力強い香り…。熟成もいい感じで進んでいて…」「うちには専門の熟成師がいて、異常なほどこだわって見張っていますからね」と、言いながら少し離れたところにいるもう一人の男性スタッフの方を見て、私に目配せします。「なるほど。で、そちらの茶色いのは…?」「これは、僕が一番好きなチーズで…。チーズの周りをパン粉で覆って、クルミのリキュールでウォッシュしているんですよ。癖があるからなかなか出ないんですけど…」「お一つ、3800円?半分とか、四分の一サイズ」では分けていただけないのですか?」「半分ならできます。ただ、四分の一だと残りの四分の一がうまく保存できないのでお分けできないんです。」「そうですか。そうですよね。困ったな、今日は山羊か羊のチーズを、と思っていたのに、魅力的なものがいっぱいで…」

「羊でしたら、ピレネー産のハードタイプが入っていますよ。」「羊?マンチェゴじゃなくて、ピレネーですか?ピレネーのどのへんだろう…」「食べてみます?」ギャルソンは再びチーズのラップフィルムをとって、まるで母親が少しずつ赤ちゃんに離乳食を与えるように、楊枝に少量をさして試食をさせてくれました。「ううむ、これもいいけど、お値段もいいですね。ある程度絞り込まないとチーズ貧乏になっちゃう…。どの子を連れて帰ったらいいかしらん。先ほどのクルミのリキュールのウォッシュタイプも気になるし…。これは産地はどこなのですか?」「ええと…ちょっと待って下さい。あ、アキテーヌ地方ですね。」「アキテーヌ!アキテーヌといえば、ボルドーが中心都市なんですもんね。チーズも美味しいわけですよね~」「随分フランスには、お詳しいですね。」「いえいえ…。たまたま半年ほど前に、ピレネーからボルドーあたりに出かけたもので…」

と、いいながらアキテーヌのどこなのか気になって仕方がありません。このへんな探究心には、我ながら呆れてしまいます(もう諦めてはいるのですが…)。大体、チーズ一つ選ぶのになんでこんなに面倒くさいことになるのでしょう。そのギャルソンがいやな顔一つせず、それどころかなにやら珍しいものを見るような(?)、楽しげなまなざしで応対してくれていることに感謝を覚え始めながらも、誘惑に負けパッケージを手にとって表記を見てみました。「わぁ、ペリグー産だそうですよ。極上のトリュフとフォアグラで有名な…。美食の町ですもん、さぞ美味しいのでしょうね。」

迷いに迷ったのですが、結局その日は初志貫徹…クロタン(山羊のシェーブルチーズ)がとてもいい感じに熟成していたし、セールにもなっていたので、それを選ぶことにしました。「クルミのチーズも捨てがたいけど、次回のお楽しみにするとして、今日はクロタンを頂いて行きます。」「ありがとうございます。じゃ、こちらのクルミのチーズは僕がプレゼントしますよ!」「…え?」「僕が半分買いますんで、その半分の四分の一をプレゼントします」「え?…そんな、いいんですか?」「はい。是非召し上がってみてください」

こんな小粋な展開になろうとは…!おまけしてもらうことはたまにあるけれど、プレゼントしてもらうなんて初めてのことです。この、フランスの田舎のマルシェ(市場)での一幕みたいな出来事が、日本の、しかもとあるデパートの一角でおこったのですから、この国も捨てたものではありません。

そのギャルソンの接客に、すっかり幸せな気持ちになって家路に着きました。彼のような社員は会社の宝だわ。何より、人を幸せにできるって、すごい。

ピアノや音楽の勉強を深めるのは一番大切なことだけど、自然な笑顔や相手を思いりながら対応できる余裕を身につけることも、同じくらい大切なことかもしれないな、なんて思いながら、その日の夜に若い赤ワインと頂いたクロタンの美味しかったこと!

(追記:…とはいえ、お店の方にご迷惑をかけてしまったのはいいことではありませんよね。近々、罪滅ぼしにまた、買いに行きたいと思います。。)

2008年02月20日

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