第364回 雪の音
「指には気をつけていらっしゃるんでしょうね」「コンサート前はさすがにお料理なんか、なさらないでしょう?」世間一般的にピアニストが一番気を遣うのは指、という認識があるようですが、私の場合は必ずしもそうではありません。気を遣うのは指よりも、むしろ耳でしょうか。なにしろ“音を聴く”ということを意識することをが大きいし、それを永年し続けているので、へんに音には敏感になってしまっているところはあります。
たとえば、些細な音が気になって眠れない。あるいは、いったんちょっとした音で目覚めてしまうと、その音が気になってもう二度寝ができない。地震の大分前に地鳴りで起きることや、夏場は目覚ましの前に、蚊の羽音に起こされてしまうこともしばしばあります。冬は冬で空気が乾燥しているからか、妙に外の音が聞こえやすくなったりするので油断ができませんし、飛行機の中はあのエンジン音でもちろん眠れない…と、いう話を誰かにしたら「耳栓をしたら?」とアドバイスを受けたのですが、それはそれで落ち着かないのです。神経質だな、と思う時もありますが、こればかりは音楽家の宿命(?)と、諦めるしかありません。
困ったことばかりでもありません。このエッセイでも何度か自慢した記憶がありますが、羽音だけで眼を使わずに、寝ぼけながら蚊を仕留めたことは一度や二度ではないのです(朝、ちゃんと起きたのちに枕元をみて、唖然としてしまうのですが…)。虫ネタばかりで恐縮ですが、中学時代に名古屋に住んでいた頃、部屋に入る前に中からゴキブリのいる音が聞こえ、殺虫剤をとりに戻ったこともありました。
一番好きなのは、夜、雪が降っている音です。現実的にはそんな音はないはずですが、雪が降り始めるととたんに外の音(というより、“気配”?)の聞こえ方が変わるので、それはそれで私にとって“音”の範疇なのです。夜中、何も聞こえていないようでも、昼間には聞こえない遠くの国道を走る車の音が聞こえてきたり、近所の家で誰かが動いていたり、という雑音はあるのです。その聞こえ方が、雪が降っていると防音効果のあるじゅうたんやカーテンに遮られるように、あたりの音がふわりとやわらかく変わるのが私にはなんともロマンティックに感じられて…。
だからと言って、世の中の雑音すべてを嫌っているわけではありません。虫の羽音も、人々の話す声やマンションの上の部屋の人の生活音とか、ちゃんとした雑音(?)なら好きなくらいです。むしろ、様々な音に興味があって好きな音が多いからこそ、つい敏感になってしまうのかもしれません。ほら、匂いに興味がある人が、いい匂いだけじゃなく、臭い匂いも積極的に嗅ぎたがる傾向があるのと同じように…。
残念に思うのは、スピーカーからの人工的な音や過多な情報によって、人間の“聞く(聴く)”という本能が慢性的に麻痺されがちな傾向があることです。本来は、人間も動物として、もっと動物の気配、空気の湿度や風の強さなどを注意深く“聴いて(利いて)”いたはずなのですが、それが情報の発達や人工的な音によってどんどん殺がれてしまっているような気がしてなりません。商店街や喫茶店、はたまたエレベーターの中までも、いつでも何処でもスピーカーから音が聞こえてくるために、自然発生している音が聞こえにくくなっていますし、別に注意深く“聴く”ことに神経を遣わなくても快適に生きていくための情報を得ることは充分にできるのだし…。第一、私のように特に“音”に興味があるマニアではない人が、そんな些細な音にいちいち関わっていたら、きっと疲れてしまうでしょう。
ベートーヴェンやフォーレが、耳が聞こえなくなってからの音(気配)の“聴きかた”がすさまじく人間離れしていて、誰も到達できないほどの芸術の高みに至っている、と巷ではよく言われていますが、むしろ彼らは人間離れしたのではなく、聴覚の衰えから本来人間のもつ能力に目覚めることができた、ということなのかもしれません。
だとすると、いかに芸術家としての才能を伸ばしていけるか、ということは、いかに衰えと向き合い、それをすなおに受け入れつつその先を見出していこうとする気持ちの大きさにかかっているのかもしれません。そう思うと、これから自分が体験するであろう様々な衰えに出会うことが、ちょっとだけ楽しみになってくるのです。
雪の音を聴くとき、そんなことを考えています。