第356回 イメージの語りべ

つい先ごろ、青森県の白神山地、八甲田山、十和田湖、奥入瀬渓流方面を旅行しました。水平線が左から右まで、めいっぱい丸くみえる深浦の海岸や、美しく色づいた山並を360度のパノラマで見渡せる八甲田山のスケールの大きさときたら!色づいた木々に囲まれた十和田湖の湖上に、うっすらと虹がかかっているのを見て、自然の神秘を感じない人はいないのではないでしょうか。よく「言葉では表現できない」と言われますが、どんな説明や素晴らしい写真…ハイビジョンのビデオ映像をもってしても、見たことのない人にその雄大さや美しさを伝えるのは、限りなく不可能に近いのではないかと思ってしまうほどでした。

でも、限りなく不可能かもしれないけれど、やはり伝えたい!…と思ってしまうのが人間のすてきなところです。純粋に感動した時、本能的にそれを人と分かち合いたい、と願うのです。シベリウスがコリ国立公園の断崖に立ち、そこからの圧倒的な風景に出会ったときも、きっとこんな強い感銘を受けたのでしょう。彼の生涯にわたって一番の傑作ともいわれている(と、言われるのはシベリウスとしては不本意だったかもしれないけれど、少なくとも知名度・人気度では今も昔もダントツ一番です)交響詩『フィンランディア』は、まさにその景観にインスピレーションを得て書かれた作品です。コリ国立公園は昨年訪れましたが確かに素晴らしい眺めでした。

考えてみたら懸命にカメラにおさめたところで、その場にいなかった人は出来上がった写真を見ても「ふ~ん…」という程度の印象にしかならないのが普通かもしれません。実物をイメージして、感動をよみがえらせることができる当の本人との間には大きな隔たりがあるのは仕方のないことです。それでも写真を撮りたくなってしまうのが人情…。実はたとえ人に伝えられなくても、自分の思い出になればそれでも充分なのです。

その点、自分の思い出のためではなく、人に伝えるために写真を撮るカメラマンは大変だろうな、と思います。一般の人とは違う客観的な捉え方や、「この被写体の何を、どのように伝えるか」というテーマをもって向かわないと“作品”にならないかもしれません。

でも、どんなに素晴らしい作品をもってしても、肉眼で実際に見、体験したときの強烈な印象には到底敵いません。景色だけでなく、空気のにおいや風の音、えもいえぬ気配のようなものは、その時その場にいるものだけがリアルに感じることができるものです。いくら精密な液晶画面や高性能なレンズ、デジタル技術を駆使しても、本物にはとても届きません。写真よりも、映像よりも…やはり“ライブ(生)”が一番です。

あるいは、こんな、あまりにも美しく雄大な景色は、写真や映像で伝えるよりも、想像力をかきたてられるような詩や音楽で抽象的なイメージを伝えるほうが、かえって人に波動しやすいのかもしれません。

イメージを表現するとき、その“被写体”はなにも、景色だけとは限りません。思想だったり世の中の理不尽さ、自分の弱さや葛藤だったり…。音楽が大好きなのは、聴き手が何をどう想像しても自由だというところです。『フィンランディア』について、そのタイトルやコリ国立公園の存在、シベリウスという人物を知っていれば、それらの知識を総合してイメージを作りながら作品を聴きこむことができるし、何も知らなければそれはそれで、まったく先入観なしに音楽をとらえることを楽しむこともできます。

「音楽は分からないので…」と謙遜される方がよくいらっしゃるのですが、音楽は株式や宗教と違って、もともと分かる、分からないと分類されるものではないのです。おっしゃった方に噛み付いたりはしませんが、それを聞くたびに「分かる、分からないではなく、共感したい、とか、楽しみたい、と思って聴いてくだされば、それでいいんですよ」とお伝えしたくなって、うずうずしてしまうのです。

一つの作品も、それを聞くタイミングやその時の心や体の“体調”で、また受け止め方が変わったりもしますし、歳を経て好みが変化してくるのも、楽しいものです。ライブならではの微妙な「興」や「間」のアドリブ感を楽しみながら、“被写体”を生き生きと伝えられる“イメージの語りべ”になりたいものです。

2007年10月19日

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