第355回 静寂の音

「美奈子さん、本当に楽しそうに弾きますね」この頃、コンサートにいらした方からこんなふうにおっしゃっていただくことが増えました。自分はステージをほとんど録画したことがないので、どんなふうに弾いているのか本人はよく分からないのですが、そんなお言葉を頂くのはとても嬉しいことです。

「静寂にも、音楽があるんですね」そして最近、ある方からコンサートの直後にこんなコメントを頂きました。「お恥ずかしながら、普段ほとんどクラシック音楽を聴くことがないのですが…」と、前置きされてからおっしゃったのですが、そのお言葉には実感がこもっていて、周りの方も微笑みながら頷いてくださいました。「そうなんですよね。ああ、ありがとうございます!」…そのコンサートでも弾いたシューベルトの音楽の中に、私もまさにそれを強く感じていたのです。私は感激のあまり胸が一杯になって、それ以上何もお答えできませんでした。

静寂の中に音楽がある、ということは、音楽とは音が鳴り響いている状態をいうとは限らない、という、一見矛盾したようなことになりますが、長い休符やちょっとした“間”にも、音楽そのものとしか言いようがないようなリズム感や緊張感、あるいはイメージをかき立てられるような表情を感じることは、珍しいことではありません。

そんな“音がない”瞬間に豊かな音楽を感じることができるって、考えてみたらすごいことです。それは耳が聞こえなくなったベートーヴェンが、沈黙と静寂の外の世界から、自らの心の中の“音”に耳を傾けて作曲を続けたことにも、つながることなのではないでしょうか。実際にはそこにないものに、確かな存在を感じる…禅問答のようですが、これこそ音楽の愉しみの一つだと思うのです。台詞ではないのにメロディーがそう聞こえたり、まるで映像が目の前に広がるような感覚に陥ったりすることも、然り。

「そうそう。音がなくても、音楽はあるのだ。音楽がなくても音があるように…」そんなことをぼんやり考えていたら、ふとヨーロッパのカフェを思い出しました。ヨーロッパの伝統的なカフェには、まず音楽が流れていません(例外や、音楽が大きな音でかかっている“若者向け”のカフェもありますが)。でも、人々のおしゃべりや外の雑踏、エスプレッソマシンが稼動する音や誰かが椅子をひく音、受け皿にコーヒーカップがおさまる時のかすかな音や、直ぐ隣でお砂糖をかき混ぜている音…その場、その瞬間でないと聞くことができない“音”に溢れています。そのなかに身をうずめることの、なんと心地よいことか!

道路に一列に並んで座って、同じゲーム機を一人ひとり別々に手にして没頭している子どもたちの姿をみると、つい「せっかくお友達が集まって外にいるんだから、一人ではできない遊びを皆で楽しめばいいのに…」なんて余計なことを思ってしまうのですが、それをカフェで感じてしまうことがしばしばあります。「せっかくカフェにいるんだから、家でも聴ける音楽じゃなくて、その場にしかない“音”の中にいたいのに…」と。職業柄、あるいは性癖的に(?)、自分が音に敏感なせいだからだ、とは分かっているのですが。

窓を開けていると、朝は鳥の声、昼は通りを行きかう人々の声や靴音、そして夜は虫の声…その他にも雨音、駅から聞こえる発車ベルや時おり犬が吠えるのやら、様々な音が聞こえてきます。ソファーに座り、ぼんやりとそんな音たちに耳を傾けてくつろぐのが好きです。

こんな私が、来月カフェで小さなカルチャー講座(?)をすることになりました。お題は『ウィーンのカフェハウス ~19世紀ウィーンのカフェ文化~』。タイトルのイメージに反して(?)内容はちっとも堅苦しくありません。ウィーンの人々にとってもカフェがどんなものだったのか…ビーダーマイヤーたちと当時のカフェの関係やら、ウィーンのカフェメニューについてのお話しとウィーンの音楽を、特別なレシピで作っていただく当日限定の“アインシュペナー(*ナポリにナポリタン、というスパゲッティーがないように、ウィーンにはウィンナコーヒーというコーヒーは存在しなくて、日本で言われているそれは現地ではアインシュペナーのこと)”を味わいながら聞いていただこう、という趣向です。音楽についての講座は何度も行なっていますが、カフェでの文化談義は初めて。お客様は集まるかしら、時間内にきちんとお伝えできるかしら、と、ドキドキしながら準備を楽しんでいます。

静寂の中にも音楽がある…幸せも豊かさも、意外にちょっとした意識で確実に感じることができるものなのかもしれません。無の中にこそすべてが在る、という禅の思想が、ほんのすこしだけ分かってきたような気がしています。

2007年10月12日

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