第352回 常緑樹は“滋養力樹”
シューベルトの即興曲(作品90の3)を弾くにつけ、ピアノ音楽を構成する三つのパートをワインに例えたヨーロッパの先生のお話しを思い出します。
「バスはワインのボトル、内声部の和声はワインそのもの。じゃぁメロディーは何かって?…メロディーはね、ラベルなんだよ。」ボトルが液体をホールドするのに不可欠であるように、バス(低音)のパートなしには音楽の方向性や礎が築けません。微妙にたゆたっては様々な香りや色彩を放つ和声の響きこそが、味わい深いワイン本体である、というのも納得がいくのですが、面白いのはメロディーがラベルだという位置づけです。確かにラベル(メロディー)は作品の“顔”となって中味を人に説明してくれるものですし、それを見て人は色々な行動にでたり(手に取ったり、買って帰ったり…)するのですから、それはそれで欠かすことができないものです。でも、そんな“説明書き”であるメロディーのパートだけに心を奪われてしまっては、肝心の“本体”を存分に楽しむことはできない、という意味にも聞こえます。
「ミナコは、僕が推奨しない“ライト・ハンド・ピアニスト”ならないようにね。ライト・ハンド・ピアニストっていうのは、メロディーばかりに注意を払って、他のもっと素敵な部分に対する配慮やセンスを欠く人のことを、僕が勝手にそう呼んでいるのだけど。実はその“ピアニスト”っていう言葉自体にも、個人的には抵抗があるんだ。“ピアニスト”とか“演奏家”ではなく、音楽家であろうとしていて欲しいんだよ。」
前者二つの言葉は、「弾く」ことに纏わるテクニック的なことに対して最大の焦点が置かれている感じを受けるのに対して、“音楽家”はすべての要素に対しての興味、探究心が求められるイメージです。ちょっとしたニュアンスの違いではありますが、そこに先生の深いメッセージが感じられ、忘れられない言葉になっています。
似たようなことを、ピアニストの友人から聞きました。彼がある世界的に有名なチェリストS先生のレッスンを受けた時のこと。一緒に弾いていたチェロの相棒が彼を「僕の伴奏者です」と紹介したら、S先生は顔を真っ赤にして「この世の中に“伴奏者”なんていう職業はない!君は彼のことを“僕のピアニストです”とか“共演者です”と言えないのかね?」と、声を荒げたというのです。言葉尻、といってしまえばそれまでですが、このエピソードを聞いたときはS先生の共演者への思いが垣間見られて、感動しました。
「役者と俳優とは、違うニュアンスがある。前者には150年の長きにわたって社会的にしいたげられてきた歌舞伎役者が常に大衆の側にあり、蔑視に堪えながらこれをバネにしてしたたかに居直り、飽くなき芸の修行に生を賭けてきた、という手工芸的な職人性秘められており、大衆と理解しあえる親しさ、肌合いの暖かみが感じられる。それに対して“俳優”には、何となく取り澄まし、『芸術家でござい』といったよそよそしさが感じられてならない。」歌舞伎や日本文化史に造詣の深い、服部幸雄氏の言葉です(著書『歌舞伎のキーワード』からの抜粋)。
最近では“女優”という言葉についても、「職業名にジェンダーを持ち込むのは如何なものか」と、その正誤性が問われるようになっています。女性だろうが男性だろうが“俳優”で統一すべきではないか、というのです。同様に“スチュワーデス”も。スチュワード、という男性形が一般的でないのだし、女性だけに対する言い回しなので差別的だ、ということから、男性、女性ともに“客室乗務員”と呼ぶことになりました。
そんな中、昨日ふとテレビを見ていたらある“女優”さんが生放送のトーク番組の中で、「私は“俳優”ではなく、あえて“女優”でありたい」とおっしゃっていました。「なんだろう、“俳優”って私にはピンとこないんです」排他的なアフォリズムにならないように、やんわりとその理由をぼかしていらしたけれど、その言葉から、彼女が女性であることを真っ向から受け入れたナチュラルな“役者観”や、強い信念のようなものが感じられました。
ところで、言葉って面白いものですが、なぜ“コト(言)”の“葉っぱ”なのでしょう?木からはらりと落ちては蘇生することを繰り返すようなものだからってこと?…落葉樹の紅葉や新緑は確かに美しいけれど、私は時代を経てなお存在し続ける、たくましい常緑樹(今、「常緑」と打ち損じて「滋養力」になってしまいました)の葉っぱのように、ちょっと無骨でも普遍性をもつ、つよく素朴な言葉に惹かれます。そんな音楽が、そして、そんな人が、好きなのです。