第350回 小さな達人たち
「台風が来ているから、明日の午後の授業がなくなるかもしれないって先生が話したとたん、クラスのみんなが“わーっ”ってすごく喜んだんだ…。だって、午前中だけってことは給食食たべたらすぐ帰れるってことだから…」小学生のYくんがにこにこしながら話してくれるのを聞いていたら、ふと自分のその頃のことを思い出しました。
台風が来て学校にいけなくなる。風邪を引いて学校を休む。先生に急な用事が入って授業が自習になる。…どんなアクシデントも、子どもはどこかわくわくしたものにしてしまいます。イレギュラーなことが起きても、上手くそれに対応して、さらに何らかの楽しみに変換してしまう柔軟な才能が、子どもにはあるのです。おとなよりも、困難や怖いことを経験していない分を差し引いても、彼らはつねにポジティブで、おとなの心配をよそに「おもしろそう!」「なんとかなるよ!」と、まっすぐ前を見て迷いません。
だから、ほんのちょっとしたことで天に昇るほどの幸せを感じたり、はたまた地獄に落ちるようなへこみ方をしたりもします。「練習したのに…」ちょっと“ツメ”が甘いところがあったため、読譜のミスに気づかなかったYくんは、それに気づいてよほど悔しかったのでしょう。そう呟いて、大きな瞳からぽたぽた涙を落としながら弾いています。でも、その後ちょっと良いことがあれば、感情の反対側にひとっ飛び。あっという間に満面の笑みを浮かべて、「自分でもこっちの曲は良くできたと思う。ここ、数え方がいつも怪しくなっちゃうところなんだけど、ちゃんと気をつけられたしね!」と満足そうです。
「わぁ、出来た!!すごいすごい!ここのお休みのところ、ちょっと迷いそうになってドキッとしたけど、ちゃんと弾けてよかったね」小さなTちゃんが見事にノーミスで曲を弾ききったので、思わず大きな声で、ちょっとオーバーに喜んでしまいました。子どもは、感情的な空気を読むことに関してはおとな以上に長けているので、隣で私が良い感情を表現すると、それがダイレクトに波動するようです。Tちゃんは私のコメントに「うふふふっ…」と声を出して笑い、「うちに帰ったら、おばぁちゃんに聞かせてあげよっかな」と、嬉しそう。「それはいい考えね!おばあちゃん、きっとすごくびっくりなさるわよ。だって、先週おばあちゃんとレッスンに来た時、この曲まだ、両手で弾けなかったのが、もうこんなに立派に弾けるようになったんだもの。何か美味しい“ごほうび”があったりして…」「うふふ…あのね、この前はみんなでオムライス食べたの」
私はというと、笑い出したら止まらなくなる子どもでした。あまりそれがひどいので、担任の先生に「笑うのは悪いことじゃないが、いつまでも笑っているのは“馬鹿”だ!」と怒られたことも…。給食の時間に男の子の格好の“標的”になって、牛乳ビンに手を伸ばしたとたんに何人かが取り囲むように私を笑わせにかかるのには、ちょっとブルーになりましたけど。
その反面、いやなことがあるとそれをどこにぶつけていいか分からずに、ぶつぶつひとりごとを言ったり、それでも気持ちに整理がつかないときには、ノートに思いのたけを書き付けたりしていました。そんな時は、おとなの「これが飲まずにいられるか」じゃないけれど、「これが書かずにいられるか」という状態になって、つい酒瓶に、じゃない、ノートに手が伸びるのです。そして、今自分が置かれている状況、どうして納得できないか、もっとどうなってほしいのか、などを綿々と綴り、書きながら整理して、思う存分書き終えた後は気分もすっきり…。単純なものです。
喜怒哀楽、というけれど、本来人間はその四つ以上に様々な感情を持っていて、それを感じたり表現することで心のバランスをとって生きていく動物なのでしょう。だから、それが充分にできていないと、息苦しくて“生き辛い”感じになってしまうのです。30代から40代のおとなに鬱病がとても増えていると聞くと、同世代の人々の感情の閉塞感が、深刻な症状にまで進行しているような気がして、心が痛みます。
泣くのも怒るのも、マイナスの感情とは限らないのです。いけないのは、自分の感情を押さえ込んでしまうことなのではないでしょうか。色々な自分を、もっと正直に表現してしまえばいいのです。音楽も芸術も、そのためのツール。アーティストとして生きていたい以上、私もいつも自分の感情や感覚に正直でいたい…。
子どもは、今日も泣いています。怒って、笑って、喜んでいます。彼らは感情表現の達人。子どもたちに接するにつけ、人間が本来は楽しみ上手な生き物なのだ、ということを教えられ、励まされています。