第347回 「きく」のいろいろ
かの本田宗一郎さんが、「表面だけを見ることは何もみていないことと同じで、観察ではなく、ただ見学しているにすぎない。外見はもちろん、目に見えないことまで想いが届く…観察とはそういうことだし、観察への道は“努力して探る”目をもってのみ、ひらかれるものだ」と、「見る」ことと「観る」ことの違いについて、そしてまた後者の重要性について語っていらっしゃいました。
同じようなことをシャーロック・ホームズも話していたっけ。「君は何気なく“見て”はいるが、“観て”つまり、観察してはいないのだよ、ワトソン君。現に、君は何年もこのぼくの部屋に足を運んでいるが、建物に入ってからこの部屋までの階段が何段あるか、数えたことはあるかね?」
科学者や技術者にだけではなく、音楽家にも大切なことです。楽譜をよく“観る”こと、さらにその向こうのまさに行間を“視る”こと、あるいは視ようとすること。…ここを見誤ると、解釈は偏見による捻じ曲げられたものになってしまったり、自己満足的なものになってしまう可能性すらあるのです。きっと本田氏は、物事をいろいろな角度から、さまざまな見方をすることに努めていたから、独自の方向性を見出すことができたのでしょう。
“みる”ことについてではありませんが、バルトークもこんなことを言っています。「君たちの“きく”は、音の表面だけを“聞いて”いるにすぎない。大切なのはその向こうの音楽までを“聴こう”とすることだ」先ほどの本田氏のコメントと驚くほど似ていて、同じ真意を感じます。
そういえば、味をみることを、正しくは味を“利く”といいます。舌だけを使うのではなく、目も鼻も、時には耳などといったあらゆる器官を動員して、さらに知覚器官ではない感覚(センス)までも使って、味に全神経を傾けること、という意味を含むのだそうです。音を“聞く”だけでは同じでも、その文字を“観察”すると、“聞く”“聴く”“利く”、そしてたずねるという意味の“訊く”など…。それぞれに豊かなニュアンスの違いがあることに、改めて気づきます。
コンクールの審査をする時、思わず“聴き”入ってしまうのは、何も一人ひとりに点数や講評を書かなければいけないからではなく、彼らが本当に真摯な気持ちで臨み、懸命に弾いているのが“観て”、そして“聴いて”取れるからです。とてもよく訓練された指で、器用に人よりも早いテンポでさらりと弾き遂げる人もいれば、一つ一つの音に配慮しながら、少々不器用ながら丁寧に音楽を紡いでいく人もいます。音楽への情熱がおさえ切れないほどあるあまり、コントロールを失ってしてしまう人、もともとちからはあるのに、よい練習方法を経ることが出来なかったがために自滅してしまった人…。参加者のタイプはそれぞれですが、それぞれに良いところも改善の余地もあるわけで、本当は点数だけで評価を表現できるものではないのです。
と、いうより、評価をすること自体、なかなか無理のあることです。人間の個性や表情に点数をつけるのが難しいのと同じで…。それでも、その数字が少しでも彼らの励みになって、また頑張ってくれるきっかけになってくれれば、という思いで、限られた時間の中で点数をしぼり出すしかありません。その数、今年の春から約900人分!審査のあった日は、いくらお酒を頂いて“リリース”しても、そしてどんなに何時間にも及ぶ審査やら移動やらで疲れていても、どうしても神経が高ぶっていて、なかなか眠つけません。
そんな時は、決まってこんな問いで頭が一杯になってしまうのです。「いい演奏ってなんだろう?そしてそのために必要なこととは?」…私の主観的な考えを言うならば、いい演奏とは、それに触れた人が何かいいパワーを得るもの、です。でも、それには弾き手の努力だけではなく、受け手の“聴き方”がどうか、という点が大きく影響します。つまり、本田宗一郎さん風に言うならば、弾く方の「失敗を恐れず、苦労と反省を重ね、本当に自分の全知全能を傾けて作品を“観察”(+表現)しようとする姿勢」と、それを受け止める人の“聴き方”の二つともが、いい演奏には必要なのかもしれません。そんな両者の間で、音楽を介してよいコミュニケーションが計られて初めて、よい時間、よい演奏が成立するのだとなると…。
私が目を向け、気持ちを傾けるのは譜面だけでは不十分ということになります。聴いてくださる方の存在に感謝することなしには、よいコミュニケーションの取りようがありません。
考えるにつけ、よい演奏することとは、きちんと生きることと限りなく近いことなのだ、という気がしてきます。テクニックを身につけることの必要性とその方法論、ステージ経験を積んで緊張に負けない精神力を育てる重要性について、などなど、巷ではよく語られているようですが、一番大切なポイントはそれ以外のところにありそうです。