第345回 被写体に向き合う
「どんなふうに、演奏に感情を入れ込んでいくんですか?」「イメージっていうは、弾きながらでも沸いてくるものなんですか?」よく聞かれるのですが、お答えするのがとても難しい質問です。
実は、作品に感情を投入したり、イメージをふくらませたりする前に、することが色々あるのです。譜面を学ぶこと。譜面の背景を知ること。俗に“行間を読む”と言われる作業以外にも、作品の書かれた時代的社会的、そしてある部分では宗教的な背景まで、知っておいたほうがいいケースも少なくありません。
イメージと言うものには、二種類あるような気がしています。ボーっとしている時にふと沸き出でるものと、あれこれ考えながらつかんでいくものです。作曲する人は前者が圧倒的なインスピレーションとなって創作の軸になっていくのだと思うのですが、演じる側の方は後者をきちんと踏まえないと、単なる“思い込み”になってしまいかねません。
そう思いながら譜面を見ていると、作曲家は実に細やかに、それぞれのメッセージをそれぞれの方法で伝えようとしているのを改めて感じます。時代的な背景もありますが、バッハはまったく細かなことを指示しませんでした。一方、ベートーヴェンの譜面は、当時としては異例なほど緻密に書きあげられています。同じ古典派と呼ばれる時代のモーツァルトやハイドンの原典版と比べてみれば、その差は歴然。ここには時代だけでなく、ピアノという楽器の進歩や変遷が影響しているのですが。
楽器としてのピアノが、音域も機能も確立されたあと…ロマン派以降の時代…になると、さらに作曲家による違いは顕著になってきます。ピアノの巨人、とか鍵盤の魔術師、といわれるリストが意外に好んだのは、“quasi(…のように)”という表記。“quasi oboe(オーボエのように)”、“quasi cello(チェロのように)”などです。ピアノを知り尽くしている彼だからこそ、他の楽器のイメージにもこと欠かなかったと見えて、ベートーヴェンの交響曲を全曲、ピアノソロのために編曲していたり、彼の書いたオーケストラ作品の響きの豊かさはリヒャルト・シュトラウスやワーグナーほどではないにしても、特筆すべきところがあります。彼はまた、交響曲に次ぐ管弦楽作品の新しいスタイル“交響詩”というジャンルを確立させたりしているのでした。また、ほぼ同時代のシューマンやショパン、そしてシューベルトたちの作品をもとに、アレンジ作品をたくさん書いているというのも、面白いことです。
バルトークはまた独特。テンポはメトロノームの数値で事細かに記されているし、曲中のアゴーギク(テンポの変化)の指示も厳密で、アクセントは何種類もの表記を使い分けています。そのアクセントも、ハンガリー語のもつ独特のアクセントに由来するものとそうでないものがあったりするので、油断できません。しかも彼の場合、曲の最後にはご丁寧に“○分○○秒”なんて、演奏時間まで指定(?)されていることも珍しくないのです。
ロマン派以降でアバウトな感じに、ざっくりと譜面を書いているのは、まずシューベルトです。その譜面にはベートーヴェンのように100パーセント、隙なく書かれているという緻密さよりも、気負わないでさらりと書いたスケッチがいかにも素敵、というようなセンスとメロディーに対するアイディアの豊かさが感じられ、まるで彼の音に興味惹かれているすべての人たちに向かって「どうぞ!こちらにおいで!」と、声をかけているかのようです。
だから、感情だけで弾くのでもなく、ただ空気中からイメージがふわふわと下りてくるのを待つというのでもなく…。ある程度冷静に相手を観察しながら、イメージを能動的に“掴みにいく”感覚が必要な気がします。それはちょうど、人に対する時とも似たものかもしれません。“好き”とか“いや”という感情を持つこと自体は自然なことですが、感情だけで行動するのはよくありませんし、その人を単に表面の印象だけであれこれ決め付けてしまっては、やはり問題があるでしょう。
たまにレッスンの中で、生徒さんに「報道写真家みたいに」と、お話しすることがあります。「報道写真家が被写体と向き合って、事実をきちんと捉え、その場にいない人に伝えようとするみたいに、まずは譜面をしっかり見てください。楽譜が、事実なんです。写真家がそのありのままを、よりよく撮ろうと光や角度や構図なんかを考えるように、楽譜をよくみて考えてください。そうすれば、譜面の通りを忠実に音にした時も、そこにはちゃんと弾き手の個性や、“何”を“どう”写そう(弾こう)という考えや解釈が、きちんと反映されるものなんです。そして、それをどう撮ったか(演奏したか)によって、被写体の伝わり方はずいぶん違ってくる…」
生徒さんに話しながら、結局は自分に言い聞かせているのですが。