第344回 孤独にもほどがある
「わたしは家を出て、遠くの地へと去った。わたしの愛を拒む人たちすべてに無限の愛を抱きながら。わたしはそれから長い年月のあいだ歌をうたって過ごした。わたしが愛をうたおうとすると、それは悲しみになった。そこで悲しみをうたおうとすると、それは愛になった。」
「ぼくはこの世でいちばん不幸で惨めな人間のような気がする。もう二度と健康体に戻れないような人間、それゆえに何でも良く考える代わりに、悪くばかりとってしまう人間、どんな希望も無残に打ち砕かれてしまった人間、どんな愛や友情も苦悩の種にしかならない人間、美に寄せる感激も空前の灯となってしまった男のことを思ってみてほしい。」
「苦悩は心を強くする。それに対し、よろこびは心を甘やかすか軽薄にする。自分のやっていることが最善で、それ以外のすべては無だということを、惨めな思いをしているたくさんの人たちに思い込ませようとする偏狭さを、ぼくは心の底から憎む。」
「他人の苦しみを、また他人の喜びをわかるものはだれもいない!だれもがともに歩んでいると思っていても、それはいつもただ並んで歩いているにすぎない。ああ、それを知るものの苦しみ!」
「ああ、ファンタジーよ!おまえは人間の最高の宝である。芸術家も学者もその汲めどもつきぬ泉から飲む!それはほんのわずかな人々にしか気づかれず、認められないとしても、あの啓蒙主義という、血も肉もない醜い骸骨からぼくたちを守ってほしい!」
「深い憧れの聖なる不安が/より美しい世界に焦がれている。/そしてこの暗い闇を/全能の愛の夢で満たしたい。/偉大なる父よ!その息子に、深い悲しみの代償として/あなたの愛の永遠の光を/救済の糧として与えてほしい。/見よ、塵芥の中に埋もれ/この上ない悔恨の生け贄となり/わたしの人生は苦行となり、永遠の破滅へと続いている。/この人生を、このわたしを殺せ。/すべてを三途の川に葬れ。/そして純な力にあふれるものを/ああ、偉大な父よ、生み出したまえ。」
20代にしてこのようなことを、ある時は日記に、またある時は友人への手紙に記した天才作曲家とは…?その人こそ、今もっとも気持ちを奪われている心の“恋人”、シューベルトです。(*出典=喜多尾道冬著『シューベルト』朝日選書)
例えば、小説『赤毛のアン』の中で、何時も何事にも前向きでまっすぐなヒロインと、彼女の輝くような感性や魅力溢れる人々との出会いに触れた読者は、この小説の作者の不幸な一生を容易にはイメージしにくいことでしょう。同じように、その短い生涯(享年31歳)のなかで、『野ばら』『子守歌』『セレナーデ』や『鱒』『アヴェ・マリア』など、誰もが耳にしたことがあるメロディーを持つ歌曲をはじめとする1000曲を超える作品を、まさに泉から水の湧き出るがごとくに次々と書き残したシューベルトが、実はこんなにも深く苦悩していたとは、想像しにくいことだと思います。
孤独や苦悩から逃げないで、それを受け入れながら自分の内なる声や目指す表現を追求したシューベルトの作品を弾く時、私は何故か民話『鶴の恩返し』や、大好きな宮沢賢治の童話『よだかの星』を思い起こすのです。とまどうことなく自分の体の羽根を抜いては、愛する男性のために織物を織り続ける鶴の“つう”。誰から求められるでもないのに、無意識に自分よりも小さな虫を殺しながら生きながらえている罪深い自らの存在を嘆き、死のうとしてもそれすら許されずに苦悩する“よだか”。命を削りながらもひたむきに生き抜く、哀しくも誇り高い彼らの姿と、孤高のシューベルトの影が、どこかだぶって見えるのでしょうか。
人間の悲しさ、愚かさ、美しさ、尊さ…。シューベルトの作品はベートーヴェンのように緻密に構築されてはいないけれど、作為が感じられないほどに衒わなく、まっすぐだからこそ、そのすべてが等身大に感じとれるのです。日記や手紙の中での、彼の独白のように。
そして、晩年の作品の中では、ぴったりと擦り寄ってくる死の影すら、そのまま受け入れてしまっているかのようです。その、諦めでも悟りでもない、もっとずっとナチュラルな境地を理解し、表現するのに足るほど、私はまだ苦しみ足りていないのはほぼ間違いないことです。
それでも、少しでも彼の近くにいきたい。近くにいたい。
小太りの小男で、収入は不安定…男性としてのシューベルトは、必ずしも女性が好む典型的なタイプではなかったかもしれませんが、私にとっては一生寄り添っていたいと願う、かけがえのない、魅力的な存在です。